不易流行 〜インドのファッション&ビューティ〜

FASHION & BEAUTY in INDIA/インドの多様性を映す民族衣装サリー情報をはじめ、昨今のファッションやジュエリー、コスメティクスのトレンドをご紹介。

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    ●INDUSの勉強会で、インドの伝統的な刺繍を学ぶ。

    遥か紀元前2000年を遡る古(いにしえ)より、受け継がれて来た刺繍。インドでは、地方や民族、コミュニティによって、それぞれに、独自の刺繍文化が栄えて来た。

    その一端を知るべく、刺繍の研究家によるレクチャーを受ける。インドの刺繍糸は、従来から野菜など天然の染料で染められており、素朴ながらも力強く鮮やかな色彩だ。

    ミラーワークが印象的な遊牧民を起源とするラバリの刺繍、動物たちをモチーフにしたシンプルなアヒ刺繍。貝やタッセルを使ったジプシーを起源とするバンジャーラの刺繍。

    そして、ここでも幾度か紹介してきたチカン刺繍、カンタ刺繍。その他、ダンワリ、カッチ、バンニ、フルカリー……。

    ミラーワークは、子どもを「悪魔の目」から守るために施されたのだといった話や、ダウリ(持参金)のかわりに、刺繍製品をたっぷりと作り、嫁入り道具にする民族があるのだという話などを聞きつつ、刺繍を通して垣間みるインドの多様性。

    本日、目にした刺繍製品の一例を、取り敢えず掲載しておこうと思う。

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    ●テロのその後。ついにはSEA LOUNGEも再開

    2004年4月。初めてムンバイを訪れ、初めてTHE TAJ MAHAL PALACEに泊まって以来、このホテルのことをとても気に入っていて、中でもオールドウィングにあるSEA LOUNGEは、館内で最も好きな場所だった。

    窓辺の席に座り、インド門やアラビア海を眺め、周辺を行き交う人々を眺め、一方で、優雅なひとときを過ごすラウンジの人々を眺め、清濁、貧富、入り乱れるムンバイを眺め、あれこれと思い巡らせながら。

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    昨年の11月26日のテロにより、多くの命が奪われ、甚大な被害を被ったこのホテルは、しかし徐々に再建へ向けての作業が進められ、5月にはこのSEA LOUNGEも再開していた。

    なかなか足を運ぶ機会がなかったのだが、今日、ようやく訪れ、一人でゆっくりと、午後のひとときを過ごしたのだった。まるで何事もなかったかのように、あのテロが、まるで夢の中の出来事のように。

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    以下は、昨年のテロの直後にTHE TAJ MAHAL PALACEの写真や映像を組み合わせて作ったもの。改めてここに貼りつけておく。ちなみにWASABIはまだ、営業を再開していない。(←と思っていたのだが、最上階のランデブーにて、すでに営業していました!)

    ●出会ってから13年記念日と、算数&数学の問題。

    妻「おめでとう!」

    夫「え? 何が?」

    毎年、朝目覚めたら、一応、おめでとう言ってみる。すると、なにがめでたいのか覚えていない夫が動揺する。

    「あ、そうそう、今日はインドで結婚式をやった日だね! おめでとう!」

    違うっちゅ〜に。

    その頭脳の出来具合と学歴を鑑みるに、どう考えても数字に強いはずの夫である。

    にも関わらず、なぜ小学5年の算数の、「速度」や「割合」で小さな挫折を見たのをきっかけに、その後、「方程式」「関数」「因数分解」で、中ぐらいの挫折を見、中学、高校とで数学全般ぼろぼろとなり、だましだまし生きて来たわたしよりも、その簡単な数字の並びとその意味を覚えられないのだろう。

    覚えたくないんだろう。

    覚えたくないにしてもだ。

    そこまで忘れることもないだろう。

    ちなみに彼は、自宅の電話番号や郵便番号などもなかなか覚えず、いつもわたしに聞く。わたしはいざというときのために、大切な電話番号などは記憶しておく習慣があるのだが、彼は携帯電話のメモリー機能に頼りっぱなしなのである。

    ……と、折しも、夫が今、神妙な顔つきで、ドキュメントを見ている。そこには無数の数字が並んでいる。

    「ねえ、アルヴィンド。その数字、何?」

    「明日の打ち合わせに備えて、データを覚えてるんだよ」

    「すぐに覚えられるの?」

    「いや、覚えられない。だから何度も見直すんだ。僕は、数字を覚えるのは嫌いなんだよ」

    「え〜そうなの? でも学生時代は、数学が得意だったんでしょ? 今だって数字を扱う仕事じゃない?」

    「僕が専門にやってきたのは、ロジック(理論)や分析。そっちは得意でも、覚えるのはまた別問題。覚える仕事は、会計とかそっちの方だよ」

    「仕事でも、数字を覚えればいいってもんじゃないんだよ。ちょっと邪魔しないで」

    ……! そうなんですか??!!

    誕生日や記念日や電話番号を覚えるのが苦手なばかりか、他の数字の記憶も苦手だったとは!! 

    今更ながら、わたしは何だか、勘違いをしていたようである。というよりは、無知だったようである。頭脳明晰な人とは、記憶力の善し悪しが大きく影響していて、ことに理数系においては、などと思い込んでいたが……。

    学問的優秀は、機械的な記憶力の問題ではなく……、勉強とは、もっと方法論を突き詰めて、行うべきことだったのかもしれない。

    そんなことは、実は漠然とだが、わかっていた気がする。わかっていたが、実践にはなんら、移せなかった学生時代だった。

    たとえ時間がかかっても、「質問」→「答え」に急ぐのではなく「質問」→「プロセス(課程)」→「答え」といった具合に、プロセスを経て、そのプロセスを理解した上で答えに至るべきだったのだろう。

    その理由付け、分析力が備わっているからこそ、数字を「丸覚え」するのではなく、導きだすことができたのだろう。

    わたしはあまりにも、当たり前のことを書いているだろうか。

    ともあれ、漠然とだが、わたしは夫に対して勘違いをしていたということに、改めて気がついた。バックグラウンドも、業種も、なにもかも違うわたしたちだが、実は似ているのかもしれない。

    「インド式算数」が、一時日本でも流行っていたようだが、流行の方向性が、大きく間違わないことを祈るばかりだ。

    さらに言えば、「インド人は二桁のかけ算を暗記している」などとまことしやかに言われているが、そんなことはない。そんな人もいるかもしれんが、夫が覚えているのは12×12くらいまでである。

    ちなみに、超優秀なサイエンティストである義兄ラグヴァン博士でさえも、「14×14程度までは暗記しているけど」とし、「そんなにたくさん暗記する意味、ないし」と言っていた。

    暗記ではなく、ロジック(理論)によって、頭の中で計算し、答えを導きだすことはできるという。

    わたしが「算数が苦手」だと感じるようになったのは、小学校5年の、ある算数の授業での、担任の先生の、今考えたら本当に、あり得ないほど忌々しい「宣言」が理由だった。

    あの日から、わたしの中で「算数は、苦手な科目」として刷り込まれてしまった。いいわけのようだが、子どもにとって、先生のネガティヴな言葉は、その人の将来を大きく左右する威力がある。

    あのとき、27歳の男性教師は、なにを根拠にあんなことを言って、子供たちを恐怖に陥れ、算数嫌いの子供たちを作ってしまったのだろう。話が長くなるので、具体的な先生のコメントを記すのは控えておくが。

    算数だけではない。あらゆる面で、わたしは彼から冷酷な仕打ちを受けた。そのときは、自分が欠陥のある人間だとしか思えなかった。人に対して思いやりのない、協調性のない、自己中心的な悪い人間だと。そして実際、そうだったのだろう。

    「生徒の力を伸ばす」のではなく、「可能性を根こそぎ叩きつぶす」ような人だった。いかん。30年以上も前の話が、鮮明に蘇りすぎた。

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    話が大いにそれたが、出会い記念日である。今夜は夫の好物であるところのチキンカツをたっぷりと揚げ、「出会い記念日」を祝したのだった。食後は、マンゴー(チョーサー種)をデザートに。

    ちなみに我々の出会いのいきさつに関しては、3年前の記録に残している。

    あの3年前から、もう3年もたってしまったのか。

    月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。(by 松尾芭蕉)

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    (写真)講演会に足を運んでくれた同級生たち。平日の朝っぱらから来てくれて、ありがとう!! 久しぶり会えてうれしかった〜! (ここに写真、載せていいか確認せんかったけど、いいやろ? せっかく写真館の人が撮ってくれたけん。もし顔が出て都合が悪かったら、連絡して〜。顔のところば消すけん)

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    本日は、母校である香椎高校の創立記念88周年の創立記念日だった。記念講演は、つつがなく終えることができた。実に、濃密な一日だった。

    午後、用事を終えて帰宅し、テレビのニュースから「福岡市内で新型インフルエンザ初の感染者」のニュースが流れた。志免町は、香椎高校の学区内である。つくづく、休校にならずにすんでよかったと思う。

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    講演は、体育館で行われた。パワーポイントを映し出すためのスクリーンも大きく設置され、演壇も麗しく、整然としたムードである。1100人を超える生徒と関係者が参加しているが、会場が静かなのに驚く。

    合計90分のうち、最初の20分は、わたしが昨年登場したテレビ番組『世界に嫁いだ日本女性/密着!海外仰天ライフ』のDVDを流してもらう。

    その時点で、すでに居眠りを始めている生徒数名。

    こらっ、ここですでに寝るか! 早すぎるやろ!

    と揺さぶり起こしたい衝動にかられつつも、気を取り直して壇上に上がる。

    自分が着用しているサリーの話にはじまり、インドの概要、それから高校を卒業してから今日に至るまでの、わたし自身の軌跡についてを、写真や文章を織り交ぜながら、話した。

    壇上から見ると、真剣に話を聞いている人と、ぼんやりしている人と、寝込んでいる人と、それぞれの様子が、館内が薄暗いとはいえ、かなりよくわかる。

    自分としては、かなりユニークかつ情熱的に、さまざまを話したつもりである。しかし、今の高校生たちに、どこまで何が伝わったのか、それは正直なところ、よくわからなかった。

    ただ、数少ない人たちでもいいから、少しでも、何かのメッセージが引っかかってくれれば、と願う。

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    生徒たちは、お行儀がよく、態度もよかった。自分たちが高校生の時のような「悪そう」な子が見当たらないのが新鮮だった。ただ、善し悪しは別にして、

    「ここは笑うところやろ!」

    というところでも、笑いの反応が全く得られなかったのは、かなり寂しかった。

    壇上と生徒たちの間に、感性の差異、世代の差異という川が流れているような気もした。わたしが一人で熱すぎる気もしたが、途中で路線を変えるわけにも行かず、取り敢えず自分の世界を押し通した。

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    高校時代の写真が映し出されたとき、笑い声が聞こえた。その「旧式なファッション」に受けているのは、同級生たちであった。

    わたしには子供がおらず、普段、日本の高校生と関わる機会もなく、今の高校生の事情がほとんどわからなかった。つまりは自分が高校生の時のことを思い出して、あのときの自分に語りかけたいことを話にしたつもりだった。

    だが、時代は確実に移り変わっていて、人々が興味を持つ対象も移り変わっていて……ということを、肌で感じさせられた。

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    さて、講演のあとは、校長先生や同窓会の役員の方々、そしてわたしの母や妹夫婦を交えてのランチ。今日の再会で最も印象に残っているのは、篠崎先生との対面だ。

    25kashii09篠崎先生(右の写真)の姿を認めた途端、

    「先生〜〜!」

    と言って、握手だけでは足らず、ついついハグをしてしまったら、

    「なんしようとや!」

    と押し返されてしまった。

    いかん。

    ここは日本である。

    しかし、ハグしたい衝動にかられるほどに、26年振りの再会は懐かしく、思いがけず、うれしいものだった。篠崎先生は現在退職し、自宅で「農業」をしていらっしゃるとのこと。ともあれ、相変わらずお元気そうで、なによりである。

    篠崎先生は体育教師だった。一時期、わたしのいたクラスの副担任だったこともあり、よく顔を合わせていた。いつも竹刀を持ち歩き、振り回し、わたしが何も悪いことをしていない(はず)にも関わらず、しょっちゅう竹刀でぶたれていた。

    「なんで先生、殴ると〜! もう、すか〜ん!」

    と、しょっちゅう文句を言っていたものである。ぶたれる理由は覚えていないが、竹刀の痛みは覚えている。不条理である。

    学年の同窓会評議員代表の任務をわたしに押し付けたのも、篠崎先生である。その経緯は、同窓会のホームページのコラム(←文字をクリック)にも記している。

    篠崎先生から言われたことで、忘れられない言葉もある。卒業当時、高校の国語の先生になると言っていたわたしに、他の生き方を示唆してくれる言葉をくれたのは、先生だった。

    ご自身も香椎高校の卒業生で、香椎高校で何十年も教鞭をとっていた先生が、しかし教師以外の道の可能性を知らしめてくれたことは、わたしの心にきちんと刻まれていた。

    そのときのエピソードもここに記している(←文字をクリック)。

    講演もさることながら、この食事中の、年配同窓生の方々との会話が面白かった。こてこての博多弁が懐かしく、わたしの口からも速やかにこぼれ出る。三つ子の魂百まで、である。

    「お前は逆らってばっかり、おったもんなあ!」

    と篠崎先生は言う。わたしは、何に逆らっていたのだろう。自分では逆らっていた記憶はないのだが……。自分では理由なくぶたれていると思っていたが、どうやら理由あってぶたれていたようである。

    「先生、今、あんなことしよったら、学校におられんくなるやろ?!」

    と、言わずにはいられない。そう思っているのはわたしだけでは、当然ないらしい。

    「今やったら、警察につかまっとうばい!」

    などと、卒業生から、よく言われるらしい。そりゃそうだろう。

    みなで弁当を食べながら、話は過去に遡る。

    「生徒を張り飛ばして鼓膜ば破ったこともありますけんね。で、近所の病院の先生も、事情をわかっとうけん、篠崎先生に殴られたんなら、お前が悪い、ってことになりよったとですよ」

    と篠崎先生。前時代的ダイナミックな発言が飛び出して笑いの渦。などと笑っているのはまた、野蛮きわまりないのだろうか。

    「オレの甥がインドに住んどって、こないだマンゴーば送って来た。ありゃ、こっちじゃ高いらしいな」

    と篠崎先生。

    「え? インドにお住まいなんですか? どこです?」

    「知らん。だいたい、オレがそれを知ってどうするとや?」

    「え〜、同じ都市に住んでらしたら、わたしが挨拶とか、できるじゃないですか。どこの会社ですか?」

    「○通」

    「お名前は?」

    「○○内」

    そんなわけで、インド○通の○○内さん。わたしは篠崎先生の教え子であります。先生からは、「マンゴーがうまかった」といったコメントは一切ありませんでしたが、さておき、本当に情熱的で、心に残る先生でした。今日、先生にお目にかかれたことは、本当にうれしかったです。

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    食事の後は、秋に行われる一大同窓会の役員を担当してくれている同級生ら数名とおしゃべり(打ち合わせ)をし、その後、「服飾デザイン科」のクラスへ、サリーを見せるために立ち寄る。

    以前は「被服科」と呼ばれていたこのクラス。当時から公立高校にしては珍しい特別なクラスだったが、今でも評価が高いのだという。文化祭の時のファッションショーは、メインイヴェントであったが、それは今も変わらないらしい。

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    ちなみに被服科の木村先生(旧姓末安先生)は、わたしが在校時にいらした新任の先生だった。講演が終わって、体育館から外へ出る時に、先生の姿を一目見て、すぐに末安先生とわかって感激した。

    彼女は当時、バスケット部の副々顧問で、たま〜に練習を見に来てくれていた。末安先生とおしゃべりしていたときの忘れられないエピソードもある。

    わたしが先生に向かって、「大人になって、歳をとるって、どんな感じ?」って尋ねたことがあった。

    先生は「20歳になったら、22歳とか23歳とか、目上の人がいるし、25歳になったらなったらで、まだ目上の人がいるし、ずっと自分は若いって気持ちでいられるよ〜」

    とわかるようなわからないようなことを、のんびりとおっしゃった。

    でもその会話が妙に心に残っていて、折に触れて「歳上の人間がいる限り、自分は若い」と発想することができた。面白いものである。

    サリーを着たいという人に簡単に着付けをしたり、サリーの説明をしたり、実際に手に触れてもらったりし、楽しいひとときである。

    大人数で話す機会を得られたのは貴重だが、こうしてみなの顔が見渡せ、直接に反応が得られるスケールでのレクチャーもまた意義深いのではなかろうかと思われた。

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    校門の前での記念撮影。左から同窓会会長、篠崎先生、そして右端が森永校長。

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    いただいた花束の芍薬(ピオニー)があまりにも美しくてうれしい。大好きな花の一つ。

    25dinner_2夜は天神まで、友人らと夕食に出かけた。

    さすがにサリー姿では目立ちすぎるので、服は着替えた。

    高校卒業以来、なんら接点がなく20年余りが過ぎた。

    この年齢になり、遠い過去と再会する事実には、さまざまな意味合いが込められているように思う。

    29日には、多くの同窓生が集まってくれての宴会が待っている。

    25年ものの再会が続出である。本当に怖い。いや、楽しみだ。

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    昨日、日曜日は丸一日、サーヴァーの不調で、インターネットにアクセスできず。たった一日、メールの確認をできないだけで、なにやら落ち着かない。

    インターネットに依存しすぎているな、と思う。しかし、インターネットなしでは、仕事もなにも、できやしない。

    さて、金曜の夜、バンガロールからムンバイ宅に戻って来た。1週間後には東京、そして2週間後は福岡。しばらくはあちこちを転々とする日が続く。

    日本での予定も、少しずつ決まり始めた。これこそ、電子メールでのやりとりができなければ、難しいこと。これが15年前だったら、ファックスや電話でやりとりをしていたのだろうか。

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    ところで土曜日の夜は、ムンバイ在住のアメリカ人女性らの組織、AWC (American Women’s Club)が主催するチャリティ・ボール(パーティ)に出席した。

    以前も何度か記した通り、基本的にはアメリカ人女性のクラブだが、他国籍の女性もウェルカムなクラブなのである。

    今回は、参加費の一部が慈善団体への寄付される、チャリティを目的とした集いである。夫とともに出席しようとチケットを購入しておいたのだった。

    会場は、ドレスコードはブラックタイ(タキシード)、ドレス、もしくはインド伝統服。わたしたちはインド服での出席である。

    09awc01バンガロールのOWCを代表して招かれていた知人二人にも遭遇する。

    AWCとOWCは相互に交流があるようだ。

    水曜日のピンクエレファント・セールで会ったばかりの彼女らと挨拶を交わし、記念撮影。

    思いがけず、夫の会社の英国人駐在員や、知り合いのNRI(非インド在住インド人/印僑)数名とも再会する。

    カクテルの後は、指定された円卓に着席してのディナータイム。

    同席になったカップル(スコットランド人、米国人、多分インド人?)はみな、年配(といっても50代、60代)だったが、会話が非常に楽しかった。

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    中でも、食べることが大好きだという自称 “foody”のカップルの話が面白かった。彼らは「究極のグルメ」である。世界中の高級レストランを訪れ、美味なる料理を食べ尽くしている様子。

    「ムンバイで一番はどこ?」

    と問われ、

    「WASABI。それ以外は勧められる店はないわ。敢えて言えば、ZODIAC GRILLかしら」

    とのこと。WASABI。森本さんの店である。昨年の11/26のテロ以来、まだ開業していない。

    「ニューヨークでは、どこ?」

    PER SE

    「では、世界で一番だと思われるレストランはどこ?」

    「スペインのelBulli」

    elBulli(エルブリ)。バルセロナから車で北へ約160キロという田舎町にありながら、世界中のグルメが駆けつける「超有名店」らしい。彼らは3年前に訪れたらしいが、その料理がいかにすばらしかったかを淡々と説明してくれた。

    ここに日本語の記事を見つけたので、参考まで(←文字をクリック)に。

    なんだか、ものすごそうである。地図を見れば、そこはサルバトール・ダリのふるさとであるフィゲラスから、彼が晩年暮らしていたカダケスに向かう途中に位置するようだ。

    フィゲラスにも、カダケスにも訪れたことはあるが、店の存在すら知らなかった。

    ただ、おいしいものを求めて旅をする。食を軸にして、旅をする。しかも、あの風光明媚なコスタ・ブラバを。わたしたちは、たいしたグルメではないけれど、しかしいつかそういう旅をしてみたいとも思う。

    El Bulli

    music

    スコットランド人のおじさんは、インド人と結婚した日本人妻にかなり興味があるらしく、あれこれと根掘り葉掘り聞かれた。

    「インドに住むのはいやでしょ?」

    と当然のように言われたので、

    「いいえ。むしろ楽しい」

    と言ったのが災いして、あれこれと突っ込まれたのだった。ラジオでインドをレポートしているとの話から、

    「ぼくはNPRのテリーグロスのラジオプログラムが好きなんだ。毎日ダウンロードして聴いているよ」

    と聞いて、そうだ、インターネットでは海外のラジオさえ聴けるのだ、と改めて知る思いで、早速聴いてみようとも思う。

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    スコットランドの伝統服に身を包んだ人たちが3人ほども。間近で見るのは初めてのことで興味深く、記念撮影をさせてもらった。

    右は友人のエマ。今回、サリーを美しく着付けている人にたくさん出会ったが、彼女のサリーもまた上品な色合いで、とてもすてきだった。

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    パーティーの後半は、ダンスダンスダンス! それにしても、熟年カップルの多くが、熱愛ムードで踊るのは、どうしたものだろう。

    妻が「お色気たっぷり」で夫を誘惑するかの如く踊るのは、どうしたものだろう。

    あの過剰なセクシーだけは、どうにも、真似できぬ。

    と思いつつ、体育会系的に、踊るのであった。ともあれ、楽しい夜であった。

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    車で市街を走り抜けていたとき、目に鮮やかなスカイブルーの店構えが目に飛び込んできた。ショーウインドーに “NEEMRANA” とある。

    20neemrana01あ〜っと、ちょっと車を停めて! 

    と毎度のごとくドライヴァーに頼み、店へ入る。

    ニームラナ(NEEMRANA)。

    ウッタル・プラデーシュの州都ラクナウLucknowの手工芸であるチカンカリ刺繍が施された衣類が売られている店だ。

    味わいのあるシティ・ガイドブック LOVE MUMBAI (←文字をクリック)でお勧めの店であるとの記事を読んだことがあったが、訪れたことはなかった。

    店内には、木綿に、シルクに、ジョーゼットなどの布地で作られたクルタ(チュニック)に、素朴でやさしい風合いの刺繍が施されたものが山と積まれている。

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    そもそもは、白を中心とした無地の木綿に、単色の刺繍糸を用い、独特のパターンと技法で刺繍を施したものが主流だ。以前わたしは義理の両親からチカンカリ刺繍入りのブルーのサルワールカミーズ(←文字をクリック)をプレゼントされたことがある。

    あまり似合わないと各方面からいわれ、着る機会がないままだ。

    この店には、伝統的な刺繍をモダンなファッションに反映させたものも揃っており、かなり魅力的なラインナップだ。クルタ以外にも、サルワールカミーズの素材や、子供用の衣類(激しくかわいい!)もある。

    無地の上に刺繍をした方が刺繍の模様が際立ってよいと思うのだが、柄物もかなり多い。あまり目立たないものの、それはそれで、密かに贅沢な感じがするともいえる。

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    インドの手工芸品。わたしが知るのは、まだまだ序の口だ。本当に、尽きなくて、たまらん。

    NEEMRANA CHIKANKARI(←モデルのお姉さんがどうにも怖い)

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    ところでこの店とは関係ないが、ニームラナと言えば、ニームラナ・フォート。あそこもまた、訪れたい場所。味わいのあるホテルの思い出はこちら

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    買い物の途中に立ち寄ったお向かいのワールドトレードセンターで、テキスタイルフェアが開かれていた。いつものように、ふらりと見学。

    と、「絞りのサリー」の専門店が出ていた。途端に目が釘付けだ。壁に吊るされた色とりどりのサリーに目を走らせる。

    昔ながらのデザインが主流を占める中、品揃えの豊富なこの間の店でも見つけられなかった、伝統的でありながら、モダンなスパイスが利いたデザインの「黒いサリー」を発見!

    一目惚れである。

    上の写真の賑やかな彼らは、店主とその家族親戚。このフェアに参加するため、一族がそろってアメダバードからやってきたのだとか。右端のおばさまが、オーナーの妻でありデザイナーである模様。

    英語を話さない彼女のために、甥やら姪やらが、通訳をかってでてくれる。

    「クレジットカードで払えるの?」

    と英語で尋ねると、

    「イエス!」と「ノー!」が同時に返ってくる。

    やんややんやと猛烈に騒がしくて、しかし楽しげだ。しかし、買い物は進まない。それでもあれこれと交渉を進め、その黒いサリーを買うことにした。

    彼らは自分たちでサリーを作り、ここで直接販売しているから、つまりは「卸値」である。決して安くはないが、しかし店で同じようなクオリティのものを買うよりも3割以上は安い。はずである。

    インドにおけるサリーや宝飾品などの手工芸品は「一期一会」であることは、これまで幾度も記した。欲しいと思った時に買っておかなければ、二度と出会えないものがほとんどだ。

    このサリーもまた、そんな雰囲気を漂わせていた。

    このごろは、サリーを選ぶ目が超えて来たと自負している。移住当初の1年目に買ったものは、「失敗したな」と思われるものも目立つ。

    どこがどう失敗なのか、を説明するのは難しい。ともかくは、いろいろなサリーを見て、審美眼を育てることである。そうすれば、自ずと見えてくる。

    サリーに限らず、インドには、いろいろと「たくさんを、しっかりと見つめて経験を積み、見極める目を養うべき」ことがたくさんあるように思う。

    サリーについても、語りたいことは尽きぬが、ともあれ、いい一枚に巡り会えてよかった。

    絞りのサリーは、腰から下に巻き付ける部分だけをしっかりとアイロンをかけてもらい、表に出てくる部分は絞りのよさを生かしてアイロンはかけないままにしてもらう。

    全部アイロンで伸ばしてしまう着方をする人も少なくないようなので、そのあたりをしっかりと伝えることがポイントである。早くブラウスとペチコートをあつらえて、近々着てみたいものだ。

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    1カ月と数日ぶりのバンガロール。今回ほど、バンガロール宅に戻るのが楽しみだったことはない。なにしろムンバイの蒸し暑さが辛い。

    日中はそこそこに凌げるのだが、問題は就寝時の「寝苦しさ」にある。

    友人や知人らの多くは「冷房をつけたまま、ブランケットを被って寝る」というのだが、わたしにはそれができない。冷房で喉が痛み、関節が痛む。身体の芯が冷えてしまう。

    とはいえ、天井のファンだけでは蒸し暑い。加えて、夏場でもバニャ〜ン(ランニングシャツ)に長袖の白いクルタパジャマを着用して寝る夫。体温が高くて汗をかきやすい彼は、まるでホカホカの肉まんのような存在感だ。

    そんな肉まん夫とから少しでも距離をとろうとベッドの端によってはみるものの五十歩百歩。蒸し暑さに夜中目をさまし、しばらく冷房を入れて消す、などということを繰り返すから、熟睡できない。

    むしろモンスーンが来れば気温も下がるのだが、今年はモンスーンの到来が遅れているようだ。なんでも、どこかの土地でモンスーンが「ひっかかっている」らしい。一気に来られてマキシマムな水害攻撃を与えられそうでいやだ。

    さて、一方のバンガロール。夕方、空港に到着するや否や、雨が降り出した。こちらはすでにモンスーンに入っていて、毎日、夕刻には雨が降っているようだ。

    この時期の空は、美しい。雲の動きがはやく、その形もまた、独特だ。まばゆいほどの白い雲と澄み切った青のコントラストの美しさ。灰色の、雨雲の隙間からこぼれ落ちる日ざしの様子もまた、いい。

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    ところで土曜の夜は、バンガロール日本人会の総会であった。数日前に記した通り、場所がタージ・レジデンシーからタージ・ウエストエンドに移行し、「速やかな感じ」で会合は過ぎていった。

    今回も、多くの日本人マダムたちがサリーなどをお召しになって、みなそれぞれに美しい。わたしは着やすい絞りの黒いサリーを着た。数カ月前にムンバイのワールドトレードセンターのフェアでアメダバードの一家から購入したものだ。

    思えば、それぞれのサリーに、購入時の逸話があり、思い出がある。3年余りのうちに少しずつ増えたサリーを眺めながら、そのときどきを思い返すのもまたをかし。

    13japan027時からの開会、9時半の終了と、短い間に、総会があり、食事があり、コーラスがあり、ビンゴーゲームありで、あっという間だ。

    思えば3年前、初めて総会に出席した時は、夫がニューデリーに転勤する可能性があり、バンガロールでの総会出席は最初で最後だと思っていた。

    しかし、バンガロールでの仕事が継続となり、家を買い、落ち着いたかと思ったら今度はムンバイ転勤。

    しかしバンガロールは拠点として残り、こうして3年後も参加している。わたしもいつしか、古株となりつつある。二度と同じ顔ぶれで集まることのないこの会合に、わたしはこの先、何度現れるのだろう。

    「いつまでインドにいるのですか?」

    と訊ねられることがよくある。

    夫は今でも、いつかは米国に戻りたいと思っているようだが、わたしは、これから先もずっとインドを拠点にしておきたいと思う。

    このまま、バンガロール宅に家財道具はじめ、さまざまな身の回りのものを取り敢えずおいておき、あとはスーツケースで移動すればいいのだ。

    今のところ、わたしにとって地球の中心はインドで、東へ飛べば日本、西へ飛べば、欧州、そして米国で、その距離感がちょうどよい。

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    つまりは、バンガロールの、ものすごい古株になる可能性も、かなり高いのである。

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    日曜日は、友人夫妻に招かれて、再びタージ・ウエストエンドに赴きサンデーブランチ。このホテルのダイニング(ミント)は、緑豊かな庭に面していて、本当に心地がよい。

    ブランチのブッフェは、シャンパンも味わえて、注がれるがままに飲んですっかり酔っぱらい、料理も少しずつ味わい、4時間ほどもしゃべって飲んでの午後だった。

    気がつけば、夫アルヴィンドがムンバイから戻るころ。今日は夕飯の準備をしたくないなと思っていたら、彼もランチミーティングでたっぷりとインド料理を味わったらしく、夕飯はワインとトースト(あんまり?)で満足してくれたのでよかった。

    14garden今日、月曜日は、日がな一日、庭と、庭に面したダイニングルームで過ごした。

    新聞の読み込みリサーチ(まだやってる)をしつつ、インターネットでテレビを見たりしつつ、月曜だが日曜の気分で。

    夜はIISキャンパスのヴァラダラジャン宅へ。

    義姉スジャータとラグヴァンと1カ月ぶりに再会し、スジャータ手作りの料理を味わう。

    やっぱり、バンガロールに戻ってくると、ほっとする。

    cafe

    ところで17日水曜日、第4回チャリティ・ティーパーティを開催します。

    今回は、さくら会を通してのメールをお送りしていませんが、OWCの会員でない方でもご参加いただけますので、ご興味のある方はどうぞお立ち寄りください。午後2時以降、コックスタウンの拙宅をオープンハウスにしています。

    詳しくは、メールでお問い合わせを。

  • 31nye00

    2008年のカウントダウンは、タージ・ウエスト・エンド (THE TAJ WEST END)で迎えた。

    ムンバイのタージ・マハル・パレスに比べると、ずいぶんこぢんまりとしているけれど、コロニアル様式の白い建築物が、豊かな緑に映えて美しいホテルだ。

    インド移住当初に滞在していたこのホテルにはまた、さまざまな思い出が詰まっている。3年以上もすぎて、顔なじみのスタッフはずいぶん減ってしまったけれど、しかしドアマンのおじさんは相変わらずで、にこやかにドアをあけてくれる。

    2005年11月にインドへ移住して以来、振り返れば4度の年越しを、ここバンガロールで過ごしたことになる。毎年、これから先一年の在り方について、あれこれと思い巡らすが、毎年が、不完全燃焼のままに幕を閉じる。

    とはいえ、身の回りの人たちが健康で、なにはともあれ、それなりに幸せな日々を生きているということだけでも、有り難いことである。

    31nyemiho3_3さて、今日は久しぶりにサリーを着用である。

    少し華やかに、金糸の刺繍が施された絞り染めのサリーだ。

    近寄って見ると、その絞りの精緻な作業のすばらしさがよくわかる。

    手工芸の粋である。

    以前も書いたが、絞りのサリーは着崩れしにくく、シルクの肌触りもやさしく、着心地がよい。

    最近はパーティーの席でも、サリーを着る人が減っていて、他の人の装いを楽しめないのが少々物足りない。

    さて、ホテルに到着したのは午後8時過ぎ。ニューイヤーズ・イヴならではの多彩なブッフェと、各種ドリンクが用意されている。まずはいつものように、スパークリングワインで乾杯をし、前菜を味わう。

    チーズやスモークサーモン、ハムなどを少しずつ。タンドーリで焼かれた魚や肉類の香りも食欲をそそる。

    「こんなものでお腹いっぱいになってしまいたくない」

    と思いつつも、我々好物のストリートスナック「チャート」なども味わう。意外なことに、アルコールのおつまみとしてもいけるのだ。

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    焼きたてのマルガリータ・ピザや、ジューシーなカニ、エビ類が美味であったが、本日、最もおいしかったのは、子豚のグリルであった。

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    一方、デザートは種類が多いばかりでどれも今ひとつ。ともあれ、食事で十分にお腹いっぱいで幸せな気分である。

    食後、カウントダウンまで時間があったので、ワインを飲んだり、用意されていた仮面や帽子をかぶって阿呆に記念撮影をしたり、時にダンスフロアで踊ったり、またテーブルに戻ってコーヒーを飲んだり、来年の抱負を語り合ったりして過ごす。

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    そしていよいよ、2008年も終わり、迎える2009年。直後に花火が打ち上げられ、再びスパークリングワインで乾杯! こうして毎年、夫と共に、平和な気分で新しい年を迎えられることに感謝しつつ、天を仰ぐ。

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    2009年は、どんな年にしよう。

    それぞれの、思いを、野心を胸に抱いて、満天の星空を見上げながら、何はともあれ、ありきたり、だけど、LOVE & PEACE。

  • 05wedding02

    ●いたずらに、不安を煽られるなかれ。逃げることの無意味。

    「根っからの怖いもの知らず」というわけではない。わたしの行動の一部をみている人からは、タフだとか、たくましいとか言われることの多い人生である。

    しかし生まれついたときから楽観的で積極的、逆境に強かったわけではない。子どものころは神経質で心配性、天災などを過度に恐れていた。「死」に連なることに敏感で、深夜、無駄に泣いたりすることも少なくなかった。

    時を重ねるに伴い、経験を重ね、知識を得、価値観を改め、強くなっていった。その程度の差はあれ、自分なりに逆境の多い道を歩いているように思う。それもまた、強度を高める理由かもしれない。

    わたしをより強くしたのは、2001年の秋、米国を襲った同時多発テロだったと、今になってしみじみと思う。

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    2001年7月、我々夫婦はインドのニューデリーで結婚式を挙げた。しかし、わたしはニューヨーク、夫はワシントンDCに暮らす二重生活を続けていた。「ワシントンDCにおいでよ」という夫の願いを、わたしはまだ、聞き入れてはいなかった。

    1998年に立ち上げた出版社「ミューズ・パブリッッシング」の仕事が、軌道に乗り始めたときだった。ニューヨークを離れたくなかったし、DCで一から営業をして、異なる仕事を始めるのも億劫だった。

    ニューヨークには、他の土地にはない独特の「磁力」があり、わたしはそれに引きつけられていた。

    アムトラックと呼ばれる鉄道で、片道3時間ほどかけてワシントンDCに通っていた。DC宅にもオフィス環境を整え、月の3分の1はDCで過ごしていた。そんな矢先の9月、テロは起こった。

    このときのことは著書『街の灯』にも詳しく記しているが、ともあれ、わたしはこのとき、人生の優先順位を再考した。今まで自分の好きなように、自分中心に生きて来た。けれどこれからは、二人で生きる日々を、大切にしようではないかと考えるに至った。

    テロの直後に発覚した友人の重い病の事実もまた、わたしの考えを変えさせるに十分だった。あのころのわたしは、いろんな意味で、打ちのめされていた。ずいぶんと、弱気になっていたと思う。

    9/11以降の米国は、空気が重かった。テロ後の数カ月間、さまざまな情報やデマに翻弄された。化学兵器によるテロの噂が流れて、ガスマスクを購入をする人が現れた。わたしとて、一度はその「ガスマスク販売」のサイトを開いたくらいだ。

    高層ビルから脱出するためのパラシュートさえ買う人もいた。笑い話ではない。みな、真剣だった。

    空港や鉄道駅が攻撃されるとの噂もまた、絶えなかった。発令されるアラート(警報)が、黄色からオレンジ、オレンジから赤と、上部を行き来するたびに、心が締め付けれるようだった。

    DCへ向かう列車を待つ間、ペンステーション(ペンシルベニア駅)で、落ち着かない思いをしたことも数知れず。香ばしいプレッツェルの香りすら、遣る瀬なかった。

    待合室の中央に設けられた警察署のブース。でかでかと、「POLICE」の文字が記されたその看板がまた、気持ちを圧迫した。

    サンクスギヴィングデーも、クリスマスも、心に灰色の膜がかかったような、常に不安にかられていた。東海岸の冬の寒さが、身体の芯まで冷やすようだった。

    思えばこの年、7月のインドでの結婚式に続き、10月にアルヴィンドの叔父の邸宅を会場に、ニューヨークでパーティを開催する予定だった。米国の友人知人を招いての、披露宴を行う予定だったのだ。

    日本の家族の航空券やホテルも手配し、ミュージカルやコンサート、ハドソン川クルーズなどの予約さえすませていた。

    すでに肺がんを患っていた父だが、そのころは小康状態を保っていたので、だからベースボール発祥の地であるニューヨーク北部の地方都市の、クーパースタウンにも連れて行く予定だった。若かりしころの父は「野球こそ人生」だったのだ。

    そんなすべてを、やりきれない思いでキャンセルしながら、しかし当時のジュリアーニ市長の言葉を、わたしは胸の中で繰り返していた。

    ふだん通りの生活をしましょう。
    それが、テロに屈しないという意思表示となります。
    今ならブロードウェイのミュージカルのチケットも簡単に手に入りますよ……。

    とはいえしばらくは、風向きによっては、自宅まで届いてくるグラウンドゼロからの「焼けた匂い」が、気分を滅入らせた。誰も口にはしなかったが、それは建物が焼ける匂いだけでは、もちろんない。

    当然ながらその匂いには、数千もの人々の、焼ける匂いをもが、含まれていたのだ。

    一人、マンハッタンの自宅(52階建て高層アパートメントビルディングの18階)で眠っているとき、ふと、ビルディングが揺らぐような恐怖に襲われた。数年前の火事の記憶と重なって、高層ビルディングに住むことが恐ろしいと感じるようになっていた。

    翌年2008年1月。DCに移転する日の朝を、今でも忘れられない。荷物を運び出し、がらんとした部屋に、朝日が差し込む。思えばわずか5年間だった。しかし、この5年間を通して、この街がわたしに与えてくれたものは、はかりしれない。

    大好きなニューヨークを、離れる自分を、逃げているのだろうか、とも思えた。しかし、自分を責めるような、否定するような考えはすまいとも、思った。わたしは、夫との新しい日々を、歩き出すのだ。前向きな一歩なのだと言い聞かせながら、部屋を出た。

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    新しい暮らしを始めたワシントンDCだって、決して「安心できる場所」ではなかった。同時多発テロの衝撃が和らぎ始めたころの2002年秋、今度はスナイパー騒ぎ(連続狙撃事件)に見舞われた。外出するのが、恐ろしくなった。

    戦場でもないのに、小さな恐怖が、ところどころにあった。それでも、その程度の恐怖は恐怖のうちにはいらないと、DCで多くの友人らと出会い、彼らの母国の話などを聞くにつけ、思うのだった。

    特に、コソボ出身の友人、フェリデの話は心に響き、自社出版していた情報誌 “muse Washington DC” でインタヴューさせてもらったのだった。

    世界は広い。自分の身の回りのことにばかり囚われていては、人生を思うように楽しめないと身を以て感じた。

    喧嘩や行き違いの多い我々夫婦は、今だって決して「円満」とは言いがたい。しかしこの人と過ごす時間を大切にしようと思うようになったのも、このころだった。

    そんな経験を経て、切に思う。翻弄されることの無意味。折に触れて記している「自分自身の軸がぶれないように」とは、まさにこのようなことなのだ。ぶれないように、両足でしっかりと屹立していたいと思うのだ。

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    2001年当時のことは、メールマガジンに記し、ホームページにも掲載している。なにしろ膨大な記録であるが、ご興味のある方は、ご一読いただければと思う。

    坂田マルハン美穂のニューヨーク&ワシントンDC通信
    2001年に発行したメールマガジン
    私は27歳だけれど、もう、100年も生きている気がする。

    ところで、一昨日はアルヴィンドの唯一の従兄、アディティヤの誕生日であったため、夫が祝いの電話をかけた。

    実業家であり政治家であったアルヴィンドの母方の祖父が設立した、ISGECという鉄鋼会社と製糖会社を、彼は父親(アルヴィンド亡母の兄)と共に経営している。

    今回、ムンバイのトライデントホテルに滞在していた日本人の視察団。彼らのうちの5人が、ISGECを訪問していたという。亡くなった方以外の5名だったとのことだが、いずれにしても、世界の狭さを思う。

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    テロのことを書き始めれば、私的な経験を通しての、思うところは尽きず。

    ともあれ、不安や懸念や恐怖に翻弄されたところで、得るものはなにもないということを、改めて認識したい。

    それは即ち無茶をする、というわけではない。

    ただ、不安や懸念や恐怖といった、「実態の曖昧なネガティヴな感情に支配されたくない」と思うのだ。そこで自分にできることは、日々を大切に、楽しく暮らすこと。ささやかなその幸運を、しっかり諸手に握りしめること。

    言いたいことは尽きぬが、今日のところはこのへんにしておこう。

    ●結婚式のその前に、マッサージ。のその前にフードフェア。

    さて、昨日金曜日は、知人の妹の結婚式のイヴェントに招かれていた。先日、NHKの「インドの衝撃」に登場した、日本の製薬会社を買収したインドのルピン社のCEOグプタ氏の末娘である。彼女の姉カヴィタとその夫マニーシュが我々の知り合いなのだ。

    結婚する当事者を知らなくても、その近親者によって結婚式に招かれるのは、非常にありがちなインドである。

    インドは現在、結婚式のシーズンである。宗教や地方、コミュニティ、階級などによってその結婚式の有り様はさまざまであるが、ともあれ、いずれもかなり「大掛かり」であることは共通している。

    彼らの結婚式も、いくつかの式典が数日に亘って企画されているようだが、わたしたちが招かれたのはカヴィタとマニーシュが企画した若者向けのDJパーティ、それから結婚披露宴パーティだ。

    結婚披露宴は、タージマハル・パレスで行われる予定だったのだが、ホテルがテロに攻撃されたこともあり、北部郊外のホテルに変更された。わたしたちは、やはり北部にあるグランド・ハイアットホテルで開催されるDJパーティにだけ、参加することにしたのだった。

    さて、日本から帰国した翌日である。それなりに疲労している。特に慣れない布団で寝たため、身体の節々が凝っている気がする。午後4時にご近所のTaj Presidentのビューティーサロンに、ヘッドマッサージとフットマッサージの予約を入れる。

    毎度記しているが、ヘッドマッサージとは名ばかりで、肩や背中、腕までも、がっちりマッサージしてくれるのである。

    0501wtcスーツケースの荷解きも終わり、さて一段落したところで窓の外を見れば、お向かいのワールドトレードセンターに、派手な「のぼり」がたっている。

    UPPER CRUST SHOW?

    大急ぎでインターネットで調べたところ、なにやらフードフェアのようである。

    これは行かねばなりますまい。

    マッサージの予約時間まで1時間。

    目にも留まらぬ早さで着替えて赴けば、なにやらあたりはいい香り。

    屋外スペースには屋台が並び、料理のデモンストレーションが行われている。

    フォーシーズンズホテルにある日本料理店のシェフ、加藤さんの姿が見える。蒸し暑い中、額に汗を光らせて、さまざまな料理を作っていらっしゃる。

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    TAJ MAHAL PALACEのWASABIが銃撃戦の舞台となってしまい、当面は再開が望めない今、さまざまと思いは去来するが、ともあれ、こうして一生懸命な日本人の姿を見ると、胸が熱くなる。

    そんなわたしに、テレビ番組の取材クルーが近寄って来た。二言三言、インタヴューを受ける。いったい何の番組でいつ放送されるのかわからぬが、派手な黄色いシャツを着た東洋人が食べ物についてコメントしていたら、それは多分、わたしである。

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    喉が渇いたので買い求めたサトウキビジュースのおいしいこと! ショウガとライムなどがまざっていて、ともかく風味よく、おいしい。料理もあれこれと試したかったが、なにしろランチを終えた直後で、お腹いっぱいなのが残念であった。

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    屋内会場では、以前もここで記した日本食料品の輸入会社もブースを出していた。さらには、日本のカレーをインド人ゲストに振る舞うという暴挙(?)に出ていた。日本のカレーについては、あれこれと言いたいことが「ごまん」とあるが、それについてはまた、後日。

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    国産ワイン、輸入アルコールのブースもあり、あちこちで味見をさせてもらう。オーストラリア産の美味白ワインに巡り合えた。そのフルーティな味わいに惚れて、つい一本、購入したのだった。

    ●グランド・ハイアットにて。DJパーティで踊る結婚イヴェント

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    さて、パーティである。DJパーティだからカジュアルな服装でいいだろうとは思うのだが、しかしサリーを着たい。こういうときこそが、サリーを着る好機なのである。

    8時からの開場だが、我々がホテルに到着したのは9時ごろ。しかしそこはインド。パーティはだらだらと人々が集まってこそのパーティなのだ。

    ホテル周辺は、予想通りの厳戒態勢。金曜の夜といえば、賑わうのがホテルだが、街の喧噪とは裏腹に、たいそう静かだ。部屋の明かりもまばらで、広々としたロビーもがらんとしており、なにやら寂しい。

    ここ数日、さまざまな警報が発令されていて、外出を控えている人が多いのだ。特に空港や高級ホテル、高級レストランなどがテロの標的になっているとの噂も流れて、敢えて外出しようと言う人は少ないのである。

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    華やかに飾り付けられたバンケットルームはしかし、人が少ない。ムンバイからだけでなく、他の地方からも訪れるはずだった招待客のキャンセルも、きっと相次いだに違いない。

    カヴィタとマニーシュが笑顔で出迎えてくれた。二人とも、相当に「普段着」である。やはりカジュアルでよかったか。

    ちなみに出席者の大半は20代から30代とおぼしき若者層。サリーを着ていたのは40代以降とおぼしき女性3名のみ(わたしを含む)。であった。うううぅ。

    ちなみにカヴィタは4姉妹の長女。今回結婚するのは末の妹だ。さらに一番下に弟がいる。彼がまた、とてもフレンドリーで感じのいい好青年。

    「あなたのお父さんの製薬会社、日本の製薬会社を買収したのんですよね? 先日、日本のテレビ番組に取材されていたのを見ましたよ。お父様の姿も拝見しました」

    と言ったら、

    「NHKの番組でしょ? 僕も出てましたよ。いや、僕の方が出てました。日本には会議で何度も行きましたから!」

    と笑いながら言う。ビジネスの服装と、今日のカジュアルな雰囲気があまりにもかけ離れていて、全然気がつかなかった。

    記憶をたどれば、彼は確かに「インドの衝撃」で、共和薬品を訪れたルピン社の経営陣の一人として、ボードミーティング(取締役会)に参加していたのだった。

    まだ20代前半であろうその若さで、たとえ二代目とはいえ、貫禄たっぷりにボードミーティングに参加していた彼。社交に慣れているインド富裕層の備え持つ、天性のようなものを感じる。

    しばらくは、グラスを片手に参加者の人々と挨拶をしたり、語り合ったり。やがてDJがはじまり、フロアが音に包まれると、みな踊り始める。

    インドのパーティでは、食事が出されるのはとても遅い時間となるので、あらかじめ腹ごしらえをしての参加である。さもなくば、空きっ腹にアルコールで踊ってしまうことになってひどい目に遭う。

    それにしても、いつも思うのは、「スニーカーに履き替えたい」である。かかとの高いサンダル履きでは、足腰に堪える。ならば踊るなと言われそうだが、あの環境で踊らずにいるほうが苦痛というものである。

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    つい昨日までは、日本における「年齢差を感じやすい社会」で、急に「老けた気分」に陥っていたわたしだったが、インドに戻ったらまるで時計を巻き戻したかのような「若者気分」に戻ってしまい、我を忘れて踊って、疲れた。

    顔がテラテラと光ってしまってもう、それでも一応、記念撮影。

    さて、みなが夕食のブッフェに向かい始めたのは、ようやく11時を過ぎたあたりから。遅すぎるというものである。それにしても、料理がとてもおいしかった。

    大勢のゲストを予想していたのであろう、コンチネンタルにインド料理と、大量の食事が用意されており、あれこれを試さずにはいられない。

    デザートもまた格別。美味クレームブリュレや、チョコレートケーキ、その場で焼いてくれるクレープ、モーヴェンピックやハーゲンダッツのアイスクリームなどなど……。

    アルヴィンドもわたしも、すっかりデザートまで満喫した。

    数カ月前にニューヨークからムンバイに移住したというインド系ジンバブエ人夫妻との話がまた楽しく、久しぶりに、世界を軽やかに行き来する多くの人々と接することができて、気分がリラックスした。

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    右上の写真は、本日主役の花嫁リチャと、「インドの衝撃」に出演していた弟である。とても仲のよい姉弟で、見ていて本当に微笑ましかった。

    アルヴィンドも久しぶりに、いつもとは違う面々と米国時代の話などができ、とてもよい気分転換となったようである。

    最後に新婦に挨拶をし、祝福の言葉を捧げ、カヴィタとマニーシュにお礼を言って、ご陽気に立ち去ったのだった。帰りの車では二人して「爆睡」したせいか、あっというまに家に着いてしまった。

    本当に、いい一日だった。

    ●ワシントンDC時代の友人日印カップル、来訪!

    ワシントンDC時代は、わたしたちを含め4組の日印カップルと、ときどき集まっていた。そのうちの一組であるノリコさんとアビナシ、そして二人の子供であるさやかちゃんと4年ぶりに再会した。

    アビナシの故郷が北ムンバイで、今回2週間ほどご実家に滞在しているとかで、明日の帰国を前に、我が家まで遊びに来てくれたのだった。

    06_5さやかちゃんがずいぶん大きくなっているのを除いては、みな変わらず、元気そうである。

    4年も会っていなかったことが信じられない感じで、気分はたちまちDC時代に戻る。

    折にふれ、互いの家を行き来していたあのころ。

    彼らの家で開かれたバーベキューパーティや日本式のお正月、さやかちゃんのひな祭りパーティなどに招かれたことを思い出す。

    我が家では、サンクスギヴィングデーなどを共にした。こうして思い返せば、何もかもが遠い記憶だ。

    5人でTAJ PRESIDENTまで赴き、ダイニングでランチを食べる。

    あれこれと語り合い、夕方、彼らを見送った。

    実はムンバイ、ここ数日、新たなテロの噂もあり、それなりに危険なエリアとされている我が家の界隈へ遊びにいくことを、ご家族からは反対されていたらしい。

    それでも遊びに来てくれたことを、とてもうれしく思う。今日の再会はきっと、心に深く刻まれることだろう。

    一日一日のささやかであれ喜びが、身にしみる日々。

    NHKスペシャル『インドの衝撃』を観て思うことたっぷり。

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    (写真:ムンバイのコラバ地区の街角にて)

    ●インド生活3周年となりて

    11月10日はインド生活3周年記念日だった。

    「石の上にも三年」な成果を、今のわたしたちは得られているだろうか。徐々には向上していると思うが、まだまだこれからだという思いのほうが強い。

    この、スピード感に満ちた時代にあって、しかしこの国で事を成すことの、時間がかかることといったら。三歩進んで二歩下がるならまだしも、三歩進んで四、五歩下がらねばならないことさえ、珍しくない。

    慌てず騒がず、時季を見計らい、着実に事を運ぶことの肝要。

    インド以前に生きてきた世界は、別世界。そのことを心底理解して、なじむまでには時間がかかる。

    3年経った今、わたしもずいぶんと、この国の流儀 <無論、地方によってまたそれは多様に異なるのだが> に慣れて来たつもりで、しかしときに、落とし穴に落ちる。

    日本人としてのわたしよりも、それはインド人であるところの夫の方が、相変わらず、苦悩している。

    先日、NHKの「インドの衝撃」の感想レポートを記したときにも触れたが、NRI(印僑)たちがこの国の経済の、大きな牽引力となっている、その積極的な側面ばかりが現実ではない。

    子どものころに故国を離れ、先進諸国で教育を受け、仕事をし、一流企業の快適なオフィスで仕事をし、美しい住宅に住まい、滑らかなハイウェイに高級車を走らせ、そのような人々が、「愛国心」というきれいごとだけで、最近でこそ成長を遂げているとはいえ、立ち後れたこの国で、常時円満に仕事を、暮らしを、遂行できようはずがない。

    「インドの家族や親戚と過ごせる」「子供のために母国の文化を伝えたい」「祖国の経済成長に貢献をしたい」といった「正」の部分を、この国の「負」の部分は、凌駕してあまりある。ということに、時を隔てて帰国し、日々を過ごす中で、気づき、打ちのめされる人も少なくない。

    だからこそ、再びまた、故国を離れる人たちがいるのだ。

    わたしたちにしても、「半年間はお試し期間」をキャッチフレーズに、米国を離れた。尤もわたしは、最初から半年で米国に戻るつもりなどまったくなかったが、夫にとってそれは「命綱」のような、一つの選択肢であった。

    そしてその思いは、この3年のうちに、消えてしまったわけではない。

    米国の経済が不安定な昨今、母国に凱旋するNRIたちは、このところ一段と増えている。そんな彼らに先駆けて、3年前に戻って来たことを、わたしは正しい選択だったと信じている。

    しかし、夫にしてみれば、受け入れがたい環境がそこここにある。この国は、少なくともわたしたちにとっては、生半可では立ち行かない、試練が少なくないということを、日々、味わっている。

    3年が経とうとも、まだまだインド初心者の思いは変わらず。この地にどっしりと根を張るのは、なかなかに難しい。だからこそ、チャレンジのし甲斐があるのだが。

    ●スケジューリングの女王の血が騒ぐ。

    さてさて、日本帰国も目前。各方面との会合の段取りを、着々と進めている。それにしてもインターネットとはなんと便利なものだろうかと、しみじみ思う。

    電子メールがなかったら、一時帰国といっても、首尾よく計画を立てることはできなかっただろう。

    それにしても、予定を立てながら、久しぶりに「スケジューリングの女王」(と、東京での編集者時代に誰かがそう呼んでくれていた)の血が騒ぐ。

    たとえば、19日の朝、RKBを訪問する。場所は福岡タワー。自宅の名島からバスでどのくらいかかるのだろう。と、西鉄バスのサイトを開いてみた。

    自宅前のバス停、それから目的地のバス停の名を入力すると、なんと自宅前のバス停に、何時何分にバスが到着して、何時何分に目的地に到着しますと出てくるではないか!

    電車ではなく、バス。渋滞やらなんやら、不測の事態がありがちなバスに、そんな「分刻み」なスケジュールが提示されているなんて。それをインドからチェックできるなんて。

    いや、日本ではそれがあたりまえなのかも知れぬが、インドでは、考えられない。アルヴィンドに話したら「異なる惑星の話のようだね」とひと言。本当にそう思う。

    米国でさえ、こんなオンタイムな運行はありえない。日本ならではだ。

    こうなるともう、その後の予定もすべて、時刻表で確認したくなる。「分単位」で時刻をスケジュールノートに書き込むなんて、なんて久しぶりのことだろうと、新鮮である。

    ●インドの家庭料理について、ちらっと書いた。

    インドチャネルというウェブサイトに、前回の「衣」に」続き、「食」をテーマにインドを書いた。文字量の制限上、かなりシンプルな内容となっているが、関心のある方は、お読みいただければと思う。記事はこちら(←文字をクリック)。

    ●日々の、取るに足らぬ断片。

    いろいろと、書きたいことは募れど、時は瞬く間に過ぎていき、さほど取るに足らない写真だけが、残されている。取るに足らぬが、せっかくだからいくつかを載せようと思う。

    14street04_5■近所へ買い物に行く途中に出合った野良猫。インドでこんなにこぎれいな野良猫は珍しい。近寄っても逃げない。かわいい。

    14cho■17階の我が家の窓から、羽を傷めた弱った蝶が、舞い飛んで来た。韃靼海峡を渡つて行つたてふてふ、ほどではないにしても、こんな高いところまで飛んで来て。花はないので、スイカの切れ端を差し出してみたら、弱々しく、羽を開いたり閉じたりするばかり。チョウはやっぱりスイカは好まぬか。スイカを好むのはカブトムシだった。しばらく、そのまま休ませておこうとデスクで仕事をしていたら、数時間後、デスクのあたりまで飛んで来て、わたしに挨拶をして、それからダイニングルームの窓から外へ飛んでいった。

    14street01■インドの人たちは、姿勢がよく、歩き方のきれいな人が多い。手足が長く、人間としての形が、とても美しい人をよく見かける。今日は目の前に、やはりとてもきれいな形をした人を見た。どんな服をも着こなせそうな様子に見惚れる。ああ、なのに30歳を過ぎたころから、みな一様に大幅増量してしまうのが、人ごとながらもったいない限りだ。

    14street02_2■日本のクライアントに頼まれて、ボリウッド映画のDVDを数本購入。シャールク・カーン主演の”Om Shanti Om”も買った。荷物になるから、DVDだけを送ってもらえれば、ということだったが、ポスターなどおまけ付きの豪華装丁ものしかなかった。それにしても、シャールク・カーン。この姿はどうにも、いただけない。わたしと同じ43歳で、ここまで腹筋を鍛え上げた努力はすばらしいと認めるにしてもだ。なんか、見たくない。暑苦しい。「ほらほら、もうわかったから。ちゃんとシャツを着て! 服のボタンを留めなさい!」と言いたくなるのは、きっとわたしだけではないはずだ。

    12ca■自宅から、ナリマン・ポイントへ向かう途中の信号待ちで。ふと外を見れば、黄色が鮮やかな車。よくよく見れば、三菱ランサーと、地味な車ではあるのだが、この長方形の風景はしかし、「ん? ここはカリフォルニア」と思わせる爽やかさ。写真だけではだめだ。真実を伝えきれないといつも思う。言葉だけでも、だめだ。音や匂いや喧噪や、五感すべてで感じてこその。百聞は一見にしかず、をどこまで文章で補えるのだろう。

    12miho■先週末の夕食時、久しぶりにサリーを着用。やっぱり絞りのサリーは着心地がよい。先日のさくら会のときに着用した(←文字をクリック)のと同じサリーだが、光の具合によって風合いが違って見えるのもまた魅力。日本へサリーを持って帰ろうかと思ったが、着ていくところがないし、ひと月遅れのハロウィーンと間違えられても困るので、今回は持ち帰らぬことにした。第一、寒いしね。天神を、サリーを着てうろうろ歩いていたら、目立って仕方がないだろうし。

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    ■アーユルヴェーダのクリニックの近くの建物。ペンキ屋の壁らしい。壁そのものが、「色見本」になっている。景観などどうでもいいようだ。ダイナミックで、おもしろい。あまりにも、インドすぎる。

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    ●広島でも仰天! なのに。

    先週、広島在住の大学時代の友人が、偶然テレビで「仰天ライフ」の再放送を見たらしい。突然旧友がテレビに現れたので驚いたとのメールが届いた。

    仰天ライフを知らない方は、こちらをご覧いただきたい。

    ■今度の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(1)経緯編
    ■今度の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(2)準備編
    ■明日の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(3)取材編
    ■あんなにも「動く自分」を見たのは、初めてのことでした。

    それにしてもだ。ニューヨーク、パリ、東京、その他インド国外へ送った仰天DVD。届いていないようだ。あれからもう、数カ月経った気がする。ああ。インド郵便事情。普通郵便で送ったわたしが悪かったのか。これはもう、消えたとしか思えない。

    船で届けたって、もう着いてもいいころだろう。十何年か前、モンゴルを旅したとき、そこから送った絵はがきが半年後に実家に届いたことがあったが、そのケースと同様、届くのだろうか。それとも紛失だろうか。一つも届いていないところが、気になる。

    やっぱり、YouTubeでなんとかすべきだろうか。

    関係者の皆様。期待をさせておきながら、届いてないようでごめんなさい。

    ●夫も、日本に来るらしい。米国日本大使館領事部の悪夢が蘇る。

    あれは、チェンナイ出張中のことだ。デリー出張中の夫から、電話が入った。

    「ねえ、ミホが日本に行くのはいつだっけ?」

    「11月中旬だけど」

    「僕、ちょうどそのころ、香港出張が入ったんだよ」

    「あら、そう」

    「香港と福岡って、近いよね」

    「うん。近いけど」

    「僕、出張の帰りに福岡に寄ろうと思うんだけど、どう思う?」

    どう思うもなにも、わたしは今回、2年ぶりの帰国で、しかも東京を端折って福岡に集中して、家族や友人、仕事関係者にあうべく、「自由に羽ばたきたい」のである。

    とはいえ、「来るな」というのも冷たい気がする。気のない返事をしていると、

    「うれしくないの?」

    と問われて、いや、うれしくないもなにもさ〜。もう、疲れたからおやすみ!

    と、電話を切ったのだった。

    だいたい、彼が日本へ行くとなると、あれこれ事情が変わってくる。友達に会うにも、日本語がわからん男同伴ではなにかと面倒だ。狭い実家で睡眠場所を確保するのも難しい。布団の予備は、あるだろうか。

    そんなことより、入国のための査証(ヴィザ)を申請せねばならない。これがまた、面倒なのだ。

    彼が最後に日本を訪れたのは、父が他界した2004年5月。

    あのとき、ワシントンDCの日本大使館領事部のとある女性から受けた仕打ちは、あまりにも苦い経験として、まさに「トラウマ化」している。

    会ったことのない人間に対して、電話での会話だけを通して、あそこまでの怒りに打ち震えたことは、我が人生、最初で最後のことだった。今、こうして書いているだけで、息苦しくなってくる。

    いったい何があったのかを知りたい方は、過去の記録を読んでいただければと思う。

    この長大な記録の●ホスピスへ。父との対面。(←文字をクリック)の後半である。

    今、読み返してみたところ、かなり感情を抑えてあっさりと書いている。実際は、こんな淡々としたことじゃなかったのだ。ああいかん。もう書かずにはいられぬ。

    noodle

    2004年5月27日。米国のワシントンDCに在住していたときのことだ。あの日わたしは、危篤の父に会うために、米国から、日本を目指していた。しかし、わたしが成田空港から福岡に向かっている最中に、父は息を引き取っていた。

    ホスピスに着いたときには、もう、家族や親戚が集まっていた。夜、ホスピスから遺体を葬儀場へ移し、葬儀の段取りをあれこれと打ち合わせて、深夜。時差ぼけと、著しい疲労。

    その1週間ほども前に、父の容態悪化をうけて、実は日本に一時帰国して1週間ほど過ごしていたのだ。さらにその直前は、夫のインド出張に伴ってインドを旅していた。地球をぐるぐると、回っていたときだった。

    ともあれ、葬儀社との打ち合わせを終え、やはり疲労困憊の妹と二人で、呆然としながら葬儀社の前のロイヤルホストで豚の角煮と中国粥のセットを食べていたときだ。

    日本大使館の領事部へヴィザを申請に行った夫から、妹の携帯電話に電話がかかってきた。領事部窓口の女性がたいへん無礼な態度で、資料が不足しているからヴィザを発行できないと言っているという。

    わたしは、父が万一のとき、夫がすぐに日本へ来られるよう、あらかじめ領事部に問い合わせて資料を万全に整えていたのだ。出してもらえないはずはない。

    夫が、「義父がたった今、亡くなったんです」と訴えても、「それでは奥さんに、直接こちらへ電話をしてもらってください」というばかりで、取り合ってくれないとのこと。

    妹の携帯電話から、クレジットカードを使って国際電話をかけ、大使館の領事部につないでもらった。その女性は、なぜなの? と問いたくなるほどに、冷淡で、失礼なものの言い方だった。

    日本からの招聘理由書が入った封筒(日本から送られた証拠となる切手や消印のあるもの)かファックス送信用紙が必要だという。資料をメールで送信できる昨今、そんなものは不要だろうと思いつつも、わたしは、問い合わせのとき、まさにそのことを予測していた。

    だから電話に出た領事部の男性に、「なにか証拠となる封筒とか、ファックスの送信履歴書などがいるんですか?」と、敢えて確認した。

    するとその男性は、「それは、便宜上のことですから、必要ありませんよ」ときっぱりと言ったのだ。きっぱりと。

    だからこそ、それ以外の書類を準備して、まとめていたのだ。その男性のことを説明したところ、その女性は、

    「ああ、そのスタッフですね。わかります。彼はそう言ったかもしれませんが、それは間違いなんです。証拠がないと、ちょっとヴィザは出せませんね。招聘理由書に書かれた日付が早すぎるんですよ。日本から連絡が来たにしては」

    「それは仕方ないでしょ? 危篤の人が、いつ亡くなるかなんて、わからないじゃないですか! 父はたった数時間前に亡くなったばかりなんですよ。危篤だからあらかじめ葬儀を予測して、招聘理由書を作ることが、なにかおかしいとでもいうのですか?」

    「ともかく、その資料がないと、出せないんですよ」

    何を言っても、暖簾に腕押しである。その他の資料、たとえば往復航空券の控えや、夫の銀行口座残高証明や、納税書類や、婚姻証明書や、米国での雇用証明書や、日本での滞在先など、あらゆる資料は整っているというのに!

    わたしは夫のために、まだ亡くなっていない父の、しかし「葬儀に出席するために」との理由で、招聘理由書を作成していた。

    それにも関わらず、「封筒がないから」というだけで、発行できないだなんてあんまりではなかろうか。しかも、わたしのミスではなく、その男性職員の伝達ミスなのだ。

    確かに不法入国の人を取り締まるのもまた、彼らの仕事だろう。しかし、状況を読んでフレキシブルに対応することは、できないのか。

    「それでは、夫が日本に来るためには、どうしたらいいんですか?!」

    明らかな返事を得られない。

    「どういう証拠が必要なのですか? そこにはわたしと夫の婚姻証明もあるでしょ? 夫婦であることは証明されているわけだから、では、あなたがこれから、葬儀場に電話してもらえますか? そうすれば、わたしの父が明らかに死んだことがわかりますから! だったら、偽装もなにも、ないでしょ!」

    「そういうこと(電話をかけるなど)は、こちらではできません」

    この女は、とことん、ヴィザを出したくないらしい。何が理由かわからんが、出したくないらしい。

    疲労と、悲しみと、怒りと、情けなさと、信じられないとの思いで、はらわたが煮えくり返っていた。

    わたしはこれほどまでに、会ったこともない他人を憎んだことはない。わたしたちは、何一つ、悪いことや間違ったことをしていなかったのだ。

    わたしはついには、言った。

    「あなた方がこのようなことをするのなら、わたしはこのことを、メディアにでも何でも、レポートしますから! 誰かが記事にしてくれるまで、あなた方の不条理な行いを、訴えますよ! ともかく、父が亡くなったのは事実で、夫はここに来る必要があるんです! あなたじゃ話にならないから、領事を出してください、領事を!」

    今思えば、いささか大げさな言いようであるが、しかし、何が何でも、夫に、日本へ来てほしかったのだ。来てもらわねば、ならなかったのだ。

    そうしてようやく、領事を出してもらった。しかも十分以上も待たされて、だ。

    領事は開口一番、

    「このたびは、御愁傷様でした。事情は担当者からお聞きしましたが、もう一度ご説明いただけますか?」

    と言った。わたしは、怒りの涙を流しながら、ことの次第を説明したのだった。領事は、

    「承知しました。今すぐ発行いたします」と言った。

    当たり前だ。当たり前だ。なぜ、その当たり前のことが、すぐにできない?!! 

    %^%*&()*%#@$%^! (公開禁止用語を心中で叫ぶ!)

    ちなみはその日は金曜日だった。普通だったら、午前中に申請して、午後引き取れる。もしもその日の取得を逃したら、夫はすでに購入していた土曜日の航空券で日本に帰国することさえ、できなかった。

    あのとき初めて、わたしは国際結婚、特に言えば、日本へヴィザなしでは行き来できない国籍の夫を伴侶とすることのリスクを、噛みしめた。母国同士が戦争を起こさなくても、イデオロギーの反発がなくても、こんな小さなことでさえ、心に負担をかける。

    加えて、わけのわからない人間一人の判断で、行く末が断たれるのだということも、痛いほど、よくわかった。あの日、もしも領事が不在だったらとしたら。

    夫は日本へ来ることは、できなかった。

    わたしが夫に米国市民権の取得を勧めたのは、実はこの件が背景の一つでもあった。結局現在は、取得しない方向で進んでいるけれど。

    ああ、猛烈に長くなった。こんなことを書くつもりはなかったのだが、書かずにはいられなかった。今でも、まだ怒りはおさまっていないようだ。

    ああ。消耗した。

    ちょっと休憩。

    noodle

    さてさて、夫に日本渡航のヴィザ、と考えただけで、著しく憂鬱な気分が襲ってくる。考えたくなかったが、出張後、ムンバイに戻り、夫と話したところ、やはり福岡に行きたいという。

    確かに4年も妻の母国を訪れていないし、香港から福岡は近いし、彼が来ればわたしも滞在を少し延ばしてもいいし、日本で買い物をした荷物を分担して持ち帰れば、一人でよりもたくさん持参できるし、まあ、いいかもしれない。

    じゃあ、来れば? と前向きな姿勢を見せたところ、

    「僕さ〜、温泉に行きたいんだけど、どう? また湯布院に行かない?」

    「ああ、京都もいいなあ。僕は京都、好きだからなあ〜。金閣寺で、またグリーンティー飲もうよ」

    「マウント・フジも行きたいなあ。河口湖のサイクリング、楽しかったよね〜。ソフトクリームもおいしかったし」

    ……。あの〜。どんどん福岡から遠のいているんですけど。

    今回、福岡集中って決めてるんだし、温泉欲はすでに2年前の湯布院の玉の湯事件で減退しているし、だいたい、京都だの富士山だの、日本の地理をわかってるのかっちゅうもんである。かつて行ったことがあるとはいえ、すべてわたしにお任せ状態だったから、わかってないだろうな。

    そんな次第で、今回滞在中の予定もまた、すべてわたしが決めるという条件のもと、夫も香港から合流することになった。そんな次第で、先週はムンバイ日本領事館へ赴き、資料を申請して来たのだった。明日、受け取りに行く予定だ。

    実は、今回の領事館で資料を申請するにあたっても、ちょっとしたトラブルがあり、実はそのことを書こうと思っていたのだが、4年前のことを思い出したらもう、「屁」みたいなものだということに気がついた。取るに足らぬ、ささやかなトラブルだった。なので、もう書かぬ。

    ところで下のいちご。仕事帰りに、夫が近所の屋台で買ってきたものだ。マンゴーの季節は、毎日のようにマンゴーを買って来ていた。その後は、カスタードアップルが続いた。先日はスイカ、そして夕べはイチゴだった。

    「タダイマ〜」と玄関のドアをあけ、チャリチャリとビニル袋の音をさせながら部屋に入ってくる夫は、なかなかに愛おしいものである。のろけているのである。

    インドで、こんなに整然と並べられたイチゴを見るのは初めてで、感動した。味はまあまあだったが、近所のインド料理レストランの超美味クルフィ(インドアイス)と一緒に食べたら、非常においしかった。

    「練乳とイチゴ」的コンビネーションである。

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    ●いつのまにか、色柄の海。

    わたしもすっかり、インド人マダム化してしまったものだと思う。そもそも、潜在的には「派手好き」だったと思う。しかし、米国時代のファッションと言えば、J. CrewのTシャツにジーンズ姿が定番だった。

    ジュエリーはといえば、ピアスホールもなく、ネックレスなどは肩が凝るからとせず、指輪と、バングルだけであった。

    ところがこの3年のうちに、どれだけ、じゃらじゃらとした女になってしまったことか。周辺のインド女性の、貧富の差を問わず、派手でじゃらじゃらした容姿に影響されたことは、言うまでもない。

    派手な衣類やジュエリーに、すっかり目が慣れてしまったのだ。

    さて、久しぶりに日本へ帰国である。季節は晩秋。すでに寒かろう。しかし、革のジャケット以外、冬的な服装がほとんどない。かつてニューヨークやパリを旅したときに買ったシャツなどはあるが、どれもこれも無地だから、とても地味に見えて仕方ない。

    でも、着用するのは日本でだから、地味でもいいではないか、と思う。しかし、多少デザインが凝っていても、白だけ、赤だけ、黒だけ、だなんて、なんてつまらないんだろうと思う。

    そしてクローゼットを広げて思う。なんて、カラフルなんだろうと。

    自分の衣類の写真を撮るのはどうしたものかと思ったが、インドのサリーやサルワール・カミーズ以外の衣類の、その一般的な派手さ具合を見ていただきたく、上の写真がその「サンプル」である。

    これらは一応「外出着」だが、コットンの室内着もまた、これに勝るとも劣らぬカラフルさ、賑やかさである。

    こういう色柄に日々埋もれていると、「無地」というのがいかに退屈に感じるか、おわかりいただけよう。

    で、日本では、いったい何を着ればいいのだろう。荷物になるからできるだけ、軽い服を持って帰りたい。革ジャンの下に半袖の服、というのはだめだろうか。パシュミナのストールでも巻いていれば、暖かいと思うのだが。なんだか、よくわからない。

    23amul_4●久しぶりに、Amul広告レポート

    お待たせしました。

    記録を残さぬ間に、すでに3種類を超える広告を目にしていた。

    少々古くなったが、せっかく激写したので、載せておこうと思う。

    まずは右の写真。先月中旬のものだ。

    イギリスで最も権威ある文学賞「ブッカー賞」にインド人作家アラヴィンド・アディガ (Aravind Adiga) 氏のデビュー作「ホワイト・タイガー (White Tiger)」が選出されたのを受けて、この広告である。

    問題は、毎度「ヒンディー語」による「ダジャレ」が決め手となっていることだ。

    51d0rtfwbhl_ss500__2ヒンディ語に明るくないわたしには、即意味がわからんところが、辛い。

    ちなみに、左がWhite Tigerの表紙である。

    広告はこの表紙をモチーフにしている。

    傍らに立っているのはアディガ氏だ。

    White TigerをYellow Trykarとしているが、Trykarの意味がわからん。

    夫に聞いてみるも、知らないとのこと。というか、真剣に取り合ってもらえない。

    悔しい。

    黄色いバターとか、マーガリンとか、そんな意味に通ずると予測されるがどうだろう。

    ちなみに下のBhookerとは、お腹が空いたとかいう意味らしい。

    Bookerとかけて、これはなかなかうまいんじゃないかと思う。

    さてお次は先月下旬。

    00amul空港へ向かう途中、いつもの場所から取り損ねたので、執念で別のロケーションの広告を激写した。

    10月22日、インド初の月面無人探査機「チャンドラヤーン1号」が打ち上げられたそのニュースを反映した広告だ。

    打ち上げが22日。

    広告を見たのは24日。

    相変わらず、すばやすぎる対応である。

    Chaar chaand lag gaya!

    意味は、わからぬ。

    夫も相手にしてくれぬ。

    きっと探査機の名前にかけているんだろう。

    そして最新の広告。買い物の途中に目にしたが、あっという間に通り過ぎてしまい、うまく撮影できなかった。無念であったゆえ、Amulのサイトにアクセスしたところ、なんと画像がアップされているではないか!

    あんなに構えて撮影しなくても、ここで動向をチェックできるのだった。

    うれしいけど、つまらんな。

    ともあれ、今回の広告もかなり「いかして」いるので紹介したい。

    Amulobama

    言わずとも知れた、オバマ氏である。今回は英語によるダジャレゆえ、わたしにもわかる。

    朝食(BREAK FAST)のBREAKを、オバマ氏のファーストネームであるところのBARACKと差し替えて、

    BARACK FAST IN THE WHITE HOUSE!

    演説中のオバマ氏に、自分が一口食べた(と思われる)バタートーストを差し出すなっちゅうに、アムール・ガール。

    それよりも衝撃的なのは、右下である。

    先日のiPhoneがらみで、社名ロゴがアップル社と同様に印刷(←文字をクリック)されていたのには驚いたが、今回は、OBAMAとAMULの名を合体させて、OBAMULである。

    オバムル。

    節操がないというか奔放というか、なんというか。

    やっぱり、この広告から目が離せない日々である。

    オバマ関連でもう一つ。

    お願い、誰か止めて! 小浜市の暴走(←文字をクリック)を! 名誉市民計画を! フラダンスを!