不易流行 〜インドのファッション&ビューティ〜

FASHION & BEAUTY in INDIA/インドの多様性を映す民族衣装サリー情報をはじめ、昨今のファッションやジュエリー、コスメティクスのトレンドをご紹介。

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    ●いたずらに、不安を煽られるなかれ。逃げることの無意味。

    「根っからの怖いもの知らず」というわけではない。わたしの行動の一部をみている人からは、タフだとか、たくましいとか言われることの多い人生である。

    しかし生まれついたときから楽観的で積極的、逆境に強かったわけではない。子どものころは神経質で心配性、天災などを過度に恐れていた。「死」に連なることに敏感で、深夜、無駄に泣いたりすることも少なくなかった。

    時を重ねるに伴い、経験を重ね、知識を得、価値観を改め、強くなっていった。その程度の差はあれ、自分なりに逆境の多い道を歩いているように思う。それもまた、強度を高める理由かもしれない。

    わたしをより強くしたのは、2001年の秋、米国を襲った同時多発テロだったと、今になってしみじみと思う。

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    2001年7月、我々夫婦はインドのニューデリーで結婚式を挙げた。しかし、わたしはニューヨーク、夫はワシントンDCに暮らす二重生活を続けていた。「ワシントンDCにおいでよ」という夫の願いを、わたしはまだ、聞き入れてはいなかった。

    1998年に立ち上げた出版社「ミューズ・パブリッッシング」の仕事が、軌道に乗り始めたときだった。ニューヨークを離れたくなかったし、DCで一から営業をして、異なる仕事を始めるのも億劫だった。

    ニューヨークには、他の土地にはない独特の「磁力」があり、わたしはそれに引きつけられていた。

    アムトラックと呼ばれる鉄道で、片道3時間ほどかけてワシントンDCに通っていた。DC宅にもオフィス環境を整え、月の3分の1はDCで過ごしていた。そんな矢先の9月、テロは起こった。

    このときのことは著書『街の灯』にも詳しく記しているが、ともあれ、わたしはこのとき、人生の優先順位を再考した。今まで自分の好きなように、自分中心に生きて来た。けれどこれからは、二人で生きる日々を、大切にしようではないかと考えるに至った。

    テロの直後に発覚した友人の重い病の事実もまた、わたしの考えを変えさせるに十分だった。あのころのわたしは、いろんな意味で、打ちのめされていた。ずいぶんと、弱気になっていたと思う。

    9/11以降の米国は、空気が重かった。テロ後の数カ月間、さまざまな情報やデマに翻弄された。化学兵器によるテロの噂が流れて、ガスマスクを購入をする人が現れた。わたしとて、一度はその「ガスマスク販売」のサイトを開いたくらいだ。

    高層ビルから脱出するためのパラシュートさえ買う人もいた。笑い話ではない。みな、真剣だった。

    空港や鉄道駅が攻撃されるとの噂もまた、絶えなかった。発令されるアラート(警報)が、黄色からオレンジ、オレンジから赤と、上部を行き来するたびに、心が締め付けれるようだった。

    DCへ向かう列車を待つ間、ペンステーション(ペンシルベニア駅)で、落ち着かない思いをしたことも数知れず。香ばしいプレッツェルの香りすら、遣る瀬なかった。

    待合室の中央に設けられた警察署のブース。でかでかと、「POLICE」の文字が記されたその看板がまた、気持ちを圧迫した。

    サンクスギヴィングデーも、クリスマスも、心に灰色の膜がかかったような、常に不安にかられていた。東海岸の冬の寒さが、身体の芯まで冷やすようだった。

    思えばこの年、7月のインドでの結婚式に続き、10月にアルヴィンドの叔父の邸宅を会場に、ニューヨークでパーティを開催する予定だった。米国の友人知人を招いての、披露宴を行う予定だったのだ。

    日本の家族の航空券やホテルも手配し、ミュージカルやコンサート、ハドソン川クルーズなどの予約さえすませていた。

    すでに肺がんを患っていた父だが、そのころは小康状態を保っていたので、だからベースボール発祥の地であるニューヨーク北部の地方都市の、クーパースタウンにも連れて行く予定だった。若かりしころの父は「野球こそ人生」だったのだ。

    そんなすべてを、やりきれない思いでキャンセルしながら、しかし当時のジュリアーニ市長の言葉を、わたしは胸の中で繰り返していた。

    ふだん通りの生活をしましょう。
    それが、テロに屈しないという意思表示となります。
    今ならブロードウェイのミュージカルのチケットも簡単に手に入りますよ……。

    とはいえしばらくは、風向きによっては、自宅まで届いてくるグラウンドゼロからの「焼けた匂い」が、気分を滅入らせた。誰も口にはしなかったが、それは建物が焼ける匂いだけでは、もちろんない。

    当然ながらその匂いには、数千もの人々の、焼ける匂いをもが、含まれていたのだ。

    一人、マンハッタンの自宅(52階建て高層アパートメントビルディングの18階)で眠っているとき、ふと、ビルディングが揺らぐような恐怖に襲われた。数年前の火事の記憶と重なって、高層ビルディングに住むことが恐ろしいと感じるようになっていた。

    翌年2008年1月。DCに移転する日の朝を、今でも忘れられない。荷物を運び出し、がらんとした部屋に、朝日が差し込む。思えばわずか5年間だった。しかし、この5年間を通して、この街がわたしに与えてくれたものは、はかりしれない。

    大好きなニューヨークを、離れる自分を、逃げているのだろうか、とも思えた。しかし、自分を責めるような、否定するような考えはすまいとも、思った。わたしは、夫との新しい日々を、歩き出すのだ。前向きな一歩なのだと言い聞かせながら、部屋を出た。

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    新しい暮らしを始めたワシントンDCだって、決して「安心できる場所」ではなかった。同時多発テロの衝撃が和らぎ始めたころの2002年秋、今度はスナイパー騒ぎ(連続狙撃事件)に見舞われた。外出するのが、恐ろしくなった。

    戦場でもないのに、小さな恐怖が、ところどころにあった。それでも、その程度の恐怖は恐怖のうちにはいらないと、DCで多くの友人らと出会い、彼らの母国の話などを聞くにつけ、思うのだった。

    特に、コソボ出身の友人、フェリデの話は心に響き、自社出版していた情報誌 “muse Washington DC” でインタヴューさせてもらったのだった。

    世界は広い。自分の身の回りのことにばかり囚われていては、人生を思うように楽しめないと身を以て感じた。

    喧嘩や行き違いの多い我々夫婦は、今だって決して「円満」とは言いがたい。しかしこの人と過ごす時間を大切にしようと思うようになったのも、このころだった。

    そんな経験を経て、切に思う。翻弄されることの無意味。折に触れて記している「自分自身の軸がぶれないように」とは、まさにこのようなことなのだ。ぶれないように、両足でしっかりと屹立していたいと思うのだ。

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    2001年当時のことは、メールマガジンに記し、ホームページにも掲載している。なにしろ膨大な記録であるが、ご興味のある方は、ご一読いただければと思う。

    坂田マルハン美穂のニューヨーク&ワシントンDC通信
    2001年に発行したメールマガジン
    私は27歳だけれど、もう、100年も生きている気がする。

    ところで、一昨日はアルヴィンドの唯一の従兄、アディティヤの誕生日であったため、夫が祝いの電話をかけた。

    実業家であり政治家であったアルヴィンドの母方の祖父が設立した、ISGECという鉄鋼会社と製糖会社を、彼は父親(アルヴィンド亡母の兄)と共に経営している。

    今回、ムンバイのトライデントホテルに滞在していた日本人の視察団。彼らのうちの5人が、ISGECを訪問していたという。亡くなった方以外の5名だったとのことだが、いずれにしても、世界の狭さを思う。

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    テロのことを書き始めれば、私的な経験を通しての、思うところは尽きず。

    ともあれ、不安や懸念や恐怖に翻弄されたところで、得るものはなにもないということを、改めて認識したい。

    それは即ち無茶をする、というわけではない。

    ただ、不安や懸念や恐怖といった、「実態の曖昧なネガティヴな感情に支配されたくない」と思うのだ。そこで自分にできることは、日々を大切に、楽しく暮らすこと。ささやかなその幸運を、しっかり諸手に握りしめること。

    言いたいことは尽きぬが、今日のところはこのへんにしておこう。

    ●結婚式のその前に、マッサージ。のその前にフードフェア。

    さて、昨日金曜日は、知人の妹の結婚式のイヴェントに招かれていた。先日、NHKの「インドの衝撃」に登場した、日本の製薬会社を買収したインドのルピン社のCEOグプタ氏の末娘である。彼女の姉カヴィタとその夫マニーシュが我々の知り合いなのだ。

    結婚する当事者を知らなくても、その近親者によって結婚式に招かれるのは、非常にありがちなインドである。

    インドは現在、結婚式のシーズンである。宗教や地方、コミュニティ、階級などによってその結婚式の有り様はさまざまであるが、ともあれ、いずれもかなり「大掛かり」であることは共通している。

    彼らの結婚式も、いくつかの式典が数日に亘って企画されているようだが、わたしたちが招かれたのはカヴィタとマニーシュが企画した若者向けのDJパーティ、それから結婚披露宴パーティだ。

    結婚披露宴は、タージマハル・パレスで行われる予定だったのだが、ホテルがテロに攻撃されたこともあり、北部郊外のホテルに変更された。わたしたちは、やはり北部にあるグランド・ハイアットホテルで開催されるDJパーティにだけ、参加することにしたのだった。

    さて、日本から帰国した翌日である。それなりに疲労している。特に慣れない布団で寝たため、身体の節々が凝っている気がする。午後4時にご近所のTaj Presidentのビューティーサロンに、ヘッドマッサージとフットマッサージの予約を入れる。

    毎度記しているが、ヘッドマッサージとは名ばかりで、肩や背中、腕までも、がっちりマッサージしてくれるのである。

    0501wtcスーツケースの荷解きも終わり、さて一段落したところで窓の外を見れば、お向かいのワールドトレードセンターに、派手な「のぼり」がたっている。

    UPPER CRUST SHOW?

    大急ぎでインターネットで調べたところ、なにやらフードフェアのようである。

    これは行かねばなりますまい。

    マッサージの予約時間まで1時間。

    目にも留まらぬ早さで着替えて赴けば、なにやらあたりはいい香り。

    屋外スペースには屋台が並び、料理のデモンストレーションが行われている。

    フォーシーズンズホテルにある日本料理店のシェフ、加藤さんの姿が見える。蒸し暑い中、額に汗を光らせて、さまざまな料理を作っていらっしゃる。

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    TAJ MAHAL PALACEのWASABIが銃撃戦の舞台となってしまい、当面は再開が望めない今、さまざまと思いは去来するが、ともあれ、こうして一生懸命な日本人の姿を見ると、胸が熱くなる。

    そんなわたしに、テレビ番組の取材クルーが近寄って来た。二言三言、インタヴューを受ける。いったい何の番組でいつ放送されるのかわからぬが、派手な黄色いシャツを着た東洋人が食べ物についてコメントしていたら、それは多分、わたしである。

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    喉が渇いたので買い求めたサトウキビジュースのおいしいこと! ショウガとライムなどがまざっていて、ともかく風味よく、おいしい。料理もあれこれと試したかったが、なにしろランチを終えた直後で、お腹いっぱいなのが残念であった。

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    屋内会場では、以前もここで記した日本食料品の輸入会社もブースを出していた。さらには、日本のカレーをインド人ゲストに振る舞うという暴挙(?)に出ていた。日本のカレーについては、あれこれと言いたいことが「ごまん」とあるが、それについてはまた、後日。

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    国産ワイン、輸入アルコールのブースもあり、あちこちで味見をさせてもらう。オーストラリア産の美味白ワインに巡り合えた。そのフルーティな味わいに惚れて、つい一本、購入したのだった。

    ●グランド・ハイアットにて。DJパーティで踊る結婚イヴェント

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    さて、パーティである。DJパーティだからカジュアルな服装でいいだろうとは思うのだが、しかしサリーを着たい。こういうときこそが、サリーを着る好機なのである。

    8時からの開場だが、我々がホテルに到着したのは9時ごろ。しかしそこはインド。パーティはだらだらと人々が集まってこそのパーティなのだ。

    ホテル周辺は、予想通りの厳戒態勢。金曜の夜といえば、賑わうのがホテルだが、街の喧噪とは裏腹に、たいそう静かだ。部屋の明かりもまばらで、広々としたロビーもがらんとしており、なにやら寂しい。

    ここ数日、さまざまな警報が発令されていて、外出を控えている人が多いのだ。特に空港や高級ホテル、高級レストランなどがテロの標的になっているとの噂も流れて、敢えて外出しようと言う人は少ないのである。

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    華やかに飾り付けられたバンケットルームはしかし、人が少ない。ムンバイからだけでなく、他の地方からも訪れるはずだった招待客のキャンセルも、きっと相次いだに違いない。

    カヴィタとマニーシュが笑顔で出迎えてくれた。二人とも、相当に「普段着」である。やはりカジュアルでよかったか。

    ちなみに出席者の大半は20代から30代とおぼしき若者層。サリーを着ていたのは40代以降とおぼしき女性3名のみ(わたしを含む)。であった。うううぅ。

    ちなみにカヴィタは4姉妹の長女。今回結婚するのは末の妹だ。さらに一番下に弟がいる。彼がまた、とてもフレンドリーで感じのいい好青年。

    「あなたのお父さんの製薬会社、日本の製薬会社を買収したのんですよね? 先日、日本のテレビ番組に取材されていたのを見ましたよ。お父様の姿も拝見しました」

    と言ったら、

    「NHKの番組でしょ? 僕も出てましたよ。いや、僕の方が出てました。日本には会議で何度も行きましたから!」

    と笑いながら言う。ビジネスの服装と、今日のカジュアルな雰囲気があまりにもかけ離れていて、全然気がつかなかった。

    記憶をたどれば、彼は確かに「インドの衝撃」で、共和薬品を訪れたルピン社の経営陣の一人として、ボードミーティング(取締役会)に参加していたのだった。

    まだ20代前半であろうその若さで、たとえ二代目とはいえ、貫禄たっぷりにボードミーティングに参加していた彼。社交に慣れているインド富裕層の備え持つ、天性のようなものを感じる。

    しばらくは、グラスを片手に参加者の人々と挨拶をしたり、語り合ったり。やがてDJがはじまり、フロアが音に包まれると、みな踊り始める。

    インドのパーティでは、食事が出されるのはとても遅い時間となるので、あらかじめ腹ごしらえをしての参加である。さもなくば、空きっ腹にアルコールで踊ってしまうことになってひどい目に遭う。

    それにしても、いつも思うのは、「スニーカーに履き替えたい」である。かかとの高いサンダル履きでは、足腰に堪える。ならば踊るなと言われそうだが、あの環境で踊らずにいるほうが苦痛というものである。

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    つい昨日までは、日本における「年齢差を感じやすい社会」で、急に「老けた気分」に陥っていたわたしだったが、インドに戻ったらまるで時計を巻き戻したかのような「若者気分」に戻ってしまい、我を忘れて踊って、疲れた。

    顔がテラテラと光ってしまってもう、それでも一応、記念撮影。

    さて、みなが夕食のブッフェに向かい始めたのは、ようやく11時を過ぎたあたりから。遅すぎるというものである。それにしても、料理がとてもおいしかった。

    大勢のゲストを予想していたのであろう、コンチネンタルにインド料理と、大量の食事が用意されており、あれこれを試さずにはいられない。

    デザートもまた格別。美味クレームブリュレや、チョコレートケーキ、その場で焼いてくれるクレープ、モーヴェンピックやハーゲンダッツのアイスクリームなどなど……。

    アルヴィンドもわたしも、すっかりデザートまで満喫した。

    数カ月前にニューヨークからムンバイに移住したというインド系ジンバブエ人夫妻との話がまた楽しく、久しぶりに、世界を軽やかに行き来する多くの人々と接することができて、気分がリラックスした。

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    右上の写真は、本日主役の花嫁リチャと、「インドの衝撃」に出演していた弟である。とても仲のよい姉弟で、見ていて本当に微笑ましかった。

    アルヴィンドも久しぶりに、いつもとは違う面々と米国時代の話などができ、とてもよい気分転換となったようである。

    最後に新婦に挨拶をし、祝福の言葉を捧げ、カヴィタとマニーシュにお礼を言って、ご陽気に立ち去ったのだった。帰りの車では二人して「爆睡」したせいか、あっというまに家に着いてしまった。

    本当に、いい一日だった。

    ●ワシントンDC時代の友人日印カップル、来訪!

    ワシントンDC時代は、わたしたちを含め4組の日印カップルと、ときどき集まっていた。そのうちの一組であるノリコさんとアビナシ、そして二人の子供であるさやかちゃんと4年ぶりに再会した。

    アビナシの故郷が北ムンバイで、今回2週間ほどご実家に滞在しているとかで、明日の帰国を前に、我が家まで遊びに来てくれたのだった。

    06_5さやかちゃんがずいぶん大きくなっているのを除いては、みな変わらず、元気そうである。

    4年も会っていなかったことが信じられない感じで、気分はたちまちDC時代に戻る。

    折にふれ、互いの家を行き来していたあのころ。

    彼らの家で開かれたバーベキューパーティや日本式のお正月、さやかちゃんのひな祭りパーティなどに招かれたことを思い出す。

    我が家では、サンクスギヴィングデーなどを共にした。こうして思い返せば、何もかもが遠い記憶だ。

    5人でTAJ PRESIDENTまで赴き、ダイニングでランチを食べる。

    あれこれと語り合い、夕方、彼らを見送った。

    実はムンバイ、ここ数日、新たなテロの噂もあり、それなりに危険なエリアとされている我が家の界隈へ遊びにいくことを、ご家族からは反対されていたらしい。

    それでも遊びに来てくれたことを、とてもうれしく思う。今日の再会はきっと、心に深く刻まれることだろう。

    一日一日のささやかであれ喜びが、身にしみる日々。

    NHKスペシャル『インドの衝撃』を観て思うことたっぷり。

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    (写真:ムンバイのコラバ地区の街角にて)

    ●インド生活3周年となりて

    11月10日はインド生活3周年記念日だった。

    「石の上にも三年」な成果を、今のわたしたちは得られているだろうか。徐々には向上していると思うが、まだまだこれからだという思いのほうが強い。

    この、スピード感に満ちた時代にあって、しかしこの国で事を成すことの、時間がかかることといったら。三歩進んで二歩下がるならまだしも、三歩進んで四、五歩下がらねばならないことさえ、珍しくない。

    慌てず騒がず、時季を見計らい、着実に事を運ぶことの肝要。

    インド以前に生きてきた世界は、別世界。そのことを心底理解して、なじむまでには時間がかかる。

    3年経った今、わたしもずいぶんと、この国の流儀 <無論、地方によってまたそれは多様に異なるのだが> に慣れて来たつもりで、しかしときに、落とし穴に落ちる。

    日本人としてのわたしよりも、それはインド人であるところの夫の方が、相変わらず、苦悩している。

    先日、NHKの「インドの衝撃」の感想レポートを記したときにも触れたが、NRI(印僑)たちがこの国の経済の、大きな牽引力となっている、その積極的な側面ばかりが現実ではない。

    子どものころに故国を離れ、先進諸国で教育を受け、仕事をし、一流企業の快適なオフィスで仕事をし、美しい住宅に住まい、滑らかなハイウェイに高級車を走らせ、そのような人々が、「愛国心」というきれいごとだけで、最近でこそ成長を遂げているとはいえ、立ち後れたこの国で、常時円満に仕事を、暮らしを、遂行できようはずがない。

    「インドの家族や親戚と過ごせる」「子供のために母国の文化を伝えたい」「祖国の経済成長に貢献をしたい」といった「正」の部分を、この国の「負」の部分は、凌駕してあまりある。ということに、時を隔てて帰国し、日々を過ごす中で、気づき、打ちのめされる人も少なくない。

    だからこそ、再びまた、故国を離れる人たちがいるのだ。

    わたしたちにしても、「半年間はお試し期間」をキャッチフレーズに、米国を離れた。尤もわたしは、最初から半年で米国に戻るつもりなどまったくなかったが、夫にとってそれは「命綱」のような、一つの選択肢であった。

    そしてその思いは、この3年のうちに、消えてしまったわけではない。

    米国の経済が不安定な昨今、母国に凱旋するNRIたちは、このところ一段と増えている。そんな彼らに先駆けて、3年前に戻って来たことを、わたしは正しい選択だったと信じている。

    しかし、夫にしてみれば、受け入れがたい環境がそこここにある。この国は、少なくともわたしたちにとっては、生半可では立ち行かない、試練が少なくないということを、日々、味わっている。

    3年が経とうとも、まだまだインド初心者の思いは変わらず。この地にどっしりと根を張るのは、なかなかに難しい。だからこそ、チャレンジのし甲斐があるのだが。

    ●スケジューリングの女王の血が騒ぐ。

    さてさて、日本帰国も目前。各方面との会合の段取りを、着々と進めている。それにしてもインターネットとはなんと便利なものだろうかと、しみじみ思う。

    電子メールがなかったら、一時帰国といっても、首尾よく計画を立てることはできなかっただろう。

    それにしても、予定を立てながら、久しぶりに「スケジューリングの女王」(と、東京での編集者時代に誰かがそう呼んでくれていた)の血が騒ぐ。

    たとえば、19日の朝、RKBを訪問する。場所は福岡タワー。自宅の名島からバスでどのくらいかかるのだろう。と、西鉄バスのサイトを開いてみた。

    自宅前のバス停、それから目的地のバス停の名を入力すると、なんと自宅前のバス停に、何時何分にバスが到着して、何時何分に目的地に到着しますと出てくるではないか!

    電車ではなく、バス。渋滞やらなんやら、不測の事態がありがちなバスに、そんな「分刻み」なスケジュールが提示されているなんて。それをインドからチェックできるなんて。

    いや、日本ではそれがあたりまえなのかも知れぬが、インドでは、考えられない。アルヴィンドに話したら「異なる惑星の話のようだね」とひと言。本当にそう思う。

    米国でさえ、こんなオンタイムな運行はありえない。日本ならではだ。

    こうなるともう、その後の予定もすべて、時刻表で確認したくなる。「分単位」で時刻をスケジュールノートに書き込むなんて、なんて久しぶりのことだろうと、新鮮である。

    ●インドの家庭料理について、ちらっと書いた。

    インドチャネルというウェブサイトに、前回の「衣」に」続き、「食」をテーマにインドを書いた。文字量の制限上、かなりシンプルな内容となっているが、関心のある方は、お読みいただければと思う。記事はこちら(←文字をクリック)。

    ●日々の、取るに足らぬ断片。

    いろいろと、書きたいことは募れど、時は瞬く間に過ぎていき、さほど取るに足らない写真だけが、残されている。取るに足らぬが、せっかくだからいくつかを載せようと思う。

    14street04_5■近所へ買い物に行く途中に出合った野良猫。インドでこんなにこぎれいな野良猫は珍しい。近寄っても逃げない。かわいい。

    14cho■17階の我が家の窓から、羽を傷めた弱った蝶が、舞い飛んで来た。韃靼海峡を渡つて行つたてふてふ、ほどではないにしても、こんな高いところまで飛んで来て。花はないので、スイカの切れ端を差し出してみたら、弱々しく、羽を開いたり閉じたりするばかり。チョウはやっぱりスイカは好まぬか。スイカを好むのはカブトムシだった。しばらく、そのまま休ませておこうとデスクで仕事をしていたら、数時間後、デスクのあたりまで飛んで来て、わたしに挨拶をして、それからダイニングルームの窓から外へ飛んでいった。

    14street01■インドの人たちは、姿勢がよく、歩き方のきれいな人が多い。手足が長く、人間としての形が、とても美しい人をよく見かける。今日は目の前に、やはりとてもきれいな形をした人を見た。どんな服をも着こなせそうな様子に見惚れる。ああ、なのに30歳を過ぎたころから、みな一様に大幅増量してしまうのが、人ごとながらもったいない限りだ。

    14street02_2■日本のクライアントに頼まれて、ボリウッド映画のDVDを数本購入。シャールク・カーン主演の”Om Shanti Om”も買った。荷物になるから、DVDだけを送ってもらえれば、ということだったが、ポスターなどおまけ付きの豪華装丁ものしかなかった。それにしても、シャールク・カーン。この姿はどうにも、いただけない。わたしと同じ43歳で、ここまで腹筋を鍛え上げた努力はすばらしいと認めるにしてもだ。なんか、見たくない。暑苦しい。「ほらほら、もうわかったから。ちゃんとシャツを着て! 服のボタンを留めなさい!」と言いたくなるのは、きっとわたしだけではないはずだ。

    12ca■自宅から、ナリマン・ポイントへ向かう途中の信号待ちで。ふと外を見れば、黄色が鮮やかな車。よくよく見れば、三菱ランサーと、地味な車ではあるのだが、この長方形の風景はしかし、「ん? ここはカリフォルニア」と思わせる爽やかさ。写真だけではだめだ。真実を伝えきれないといつも思う。言葉だけでも、だめだ。音や匂いや喧噪や、五感すべてで感じてこその。百聞は一見にしかず、をどこまで文章で補えるのだろう。

    12miho■先週末の夕食時、久しぶりにサリーを着用。やっぱり絞りのサリーは着心地がよい。先日のさくら会のときに着用した(←文字をクリック)のと同じサリーだが、光の具合によって風合いが違って見えるのもまた魅力。日本へサリーを持って帰ろうかと思ったが、着ていくところがないし、ひと月遅れのハロウィーンと間違えられても困るので、今回は持ち帰らぬことにした。第一、寒いしね。天神を、サリーを着てうろうろ歩いていたら、目立って仕方がないだろうし。

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    ■アーユルヴェーダのクリニックの近くの建物。ペンキ屋の壁らしい。壁そのものが、「色見本」になっている。景観などどうでもいいようだ。ダイナミックで、おもしろい。あまりにも、インドすぎる。

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    ●広島でも仰天! なのに。

    先週、広島在住の大学時代の友人が、偶然テレビで「仰天ライフ」の再放送を見たらしい。突然旧友がテレビに現れたので驚いたとのメールが届いた。

    仰天ライフを知らない方は、こちらをご覧いただきたい。

    ■今度の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(1)経緯編
    ■今度の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(2)準備編
    ■明日の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(3)取材編
    ■あんなにも「動く自分」を見たのは、初めてのことでした。

    それにしてもだ。ニューヨーク、パリ、東京、その他インド国外へ送った仰天DVD。届いていないようだ。あれからもう、数カ月経った気がする。ああ。インド郵便事情。普通郵便で送ったわたしが悪かったのか。これはもう、消えたとしか思えない。

    船で届けたって、もう着いてもいいころだろう。十何年か前、モンゴルを旅したとき、そこから送った絵はがきが半年後に実家に届いたことがあったが、そのケースと同様、届くのだろうか。それとも紛失だろうか。一つも届いていないところが、気になる。

    やっぱり、YouTubeでなんとかすべきだろうか。

    関係者の皆様。期待をさせておきながら、届いてないようでごめんなさい。

    ●夫も、日本に来るらしい。米国日本大使館領事部の悪夢が蘇る。

    あれは、チェンナイ出張中のことだ。デリー出張中の夫から、電話が入った。

    「ねえ、ミホが日本に行くのはいつだっけ?」

    「11月中旬だけど」

    「僕、ちょうどそのころ、香港出張が入ったんだよ」

    「あら、そう」

    「香港と福岡って、近いよね」

    「うん。近いけど」

    「僕、出張の帰りに福岡に寄ろうと思うんだけど、どう思う?」

    どう思うもなにも、わたしは今回、2年ぶりの帰国で、しかも東京を端折って福岡に集中して、家族や友人、仕事関係者にあうべく、「自由に羽ばたきたい」のである。

    とはいえ、「来るな」というのも冷たい気がする。気のない返事をしていると、

    「うれしくないの?」

    と問われて、いや、うれしくないもなにもさ〜。もう、疲れたからおやすみ!

    と、電話を切ったのだった。

    だいたい、彼が日本へ行くとなると、あれこれ事情が変わってくる。友達に会うにも、日本語がわからん男同伴ではなにかと面倒だ。狭い実家で睡眠場所を確保するのも難しい。布団の予備は、あるだろうか。

    そんなことより、入国のための査証(ヴィザ)を申請せねばならない。これがまた、面倒なのだ。

    彼が最後に日本を訪れたのは、父が他界した2004年5月。

    あのとき、ワシントンDCの日本大使館領事部のとある女性から受けた仕打ちは、あまりにも苦い経験として、まさに「トラウマ化」している。

    会ったことのない人間に対して、電話での会話だけを通して、あそこまでの怒りに打ち震えたことは、我が人生、最初で最後のことだった。今、こうして書いているだけで、息苦しくなってくる。

    いったい何があったのかを知りたい方は、過去の記録を読んでいただければと思う。

    この長大な記録の●ホスピスへ。父との対面。(←文字をクリック)の後半である。

    今、読み返してみたところ、かなり感情を抑えてあっさりと書いている。実際は、こんな淡々としたことじゃなかったのだ。ああいかん。もう書かずにはいられぬ。

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    2004年5月27日。米国のワシントンDCに在住していたときのことだ。あの日わたしは、危篤の父に会うために、米国から、日本を目指していた。しかし、わたしが成田空港から福岡に向かっている最中に、父は息を引き取っていた。

    ホスピスに着いたときには、もう、家族や親戚が集まっていた。夜、ホスピスから遺体を葬儀場へ移し、葬儀の段取りをあれこれと打ち合わせて、深夜。時差ぼけと、著しい疲労。

    その1週間ほども前に、父の容態悪化をうけて、実は日本に一時帰国して1週間ほど過ごしていたのだ。さらにその直前は、夫のインド出張に伴ってインドを旅していた。地球をぐるぐると、回っていたときだった。

    ともあれ、葬儀社との打ち合わせを終え、やはり疲労困憊の妹と二人で、呆然としながら葬儀社の前のロイヤルホストで豚の角煮と中国粥のセットを食べていたときだ。

    日本大使館の領事部へヴィザを申請に行った夫から、妹の携帯電話に電話がかかってきた。領事部窓口の女性がたいへん無礼な態度で、資料が不足しているからヴィザを発行できないと言っているという。

    わたしは、父が万一のとき、夫がすぐに日本へ来られるよう、あらかじめ領事部に問い合わせて資料を万全に整えていたのだ。出してもらえないはずはない。

    夫が、「義父がたった今、亡くなったんです」と訴えても、「それでは奥さんに、直接こちらへ電話をしてもらってください」というばかりで、取り合ってくれないとのこと。

    妹の携帯電話から、クレジットカードを使って国際電話をかけ、大使館の領事部につないでもらった。その女性は、なぜなの? と問いたくなるほどに、冷淡で、失礼なものの言い方だった。

    日本からの招聘理由書が入った封筒(日本から送られた証拠となる切手や消印のあるもの)かファックス送信用紙が必要だという。資料をメールで送信できる昨今、そんなものは不要だろうと思いつつも、わたしは、問い合わせのとき、まさにそのことを予測していた。

    だから電話に出た領事部の男性に、「なにか証拠となる封筒とか、ファックスの送信履歴書などがいるんですか?」と、敢えて確認した。

    するとその男性は、「それは、便宜上のことですから、必要ありませんよ」ときっぱりと言ったのだ。きっぱりと。

    だからこそ、それ以外の書類を準備して、まとめていたのだ。その男性のことを説明したところ、その女性は、

    「ああ、そのスタッフですね。わかります。彼はそう言ったかもしれませんが、それは間違いなんです。証拠がないと、ちょっとヴィザは出せませんね。招聘理由書に書かれた日付が早すぎるんですよ。日本から連絡が来たにしては」

    「それは仕方ないでしょ? 危篤の人が、いつ亡くなるかなんて、わからないじゃないですか! 父はたった数時間前に亡くなったばかりなんですよ。危篤だからあらかじめ葬儀を予測して、招聘理由書を作ることが、なにかおかしいとでもいうのですか?」

    「ともかく、その資料がないと、出せないんですよ」

    何を言っても、暖簾に腕押しである。その他の資料、たとえば往復航空券の控えや、夫の銀行口座残高証明や、納税書類や、婚姻証明書や、米国での雇用証明書や、日本での滞在先など、あらゆる資料は整っているというのに!

    わたしは夫のために、まだ亡くなっていない父の、しかし「葬儀に出席するために」との理由で、招聘理由書を作成していた。

    それにも関わらず、「封筒がないから」というだけで、発行できないだなんてあんまりではなかろうか。しかも、わたしのミスではなく、その男性職員の伝達ミスなのだ。

    確かに不法入国の人を取り締まるのもまた、彼らの仕事だろう。しかし、状況を読んでフレキシブルに対応することは、できないのか。

    「それでは、夫が日本に来るためには、どうしたらいいんですか?!」

    明らかな返事を得られない。

    「どういう証拠が必要なのですか? そこにはわたしと夫の婚姻証明もあるでしょ? 夫婦であることは証明されているわけだから、では、あなたがこれから、葬儀場に電話してもらえますか? そうすれば、わたしの父が明らかに死んだことがわかりますから! だったら、偽装もなにも、ないでしょ!」

    「そういうこと(電話をかけるなど)は、こちらではできません」

    この女は、とことん、ヴィザを出したくないらしい。何が理由かわからんが、出したくないらしい。

    疲労と、悲しみと、怒りと、情けなさと、信じられないとの思いで、はらわたが煮えくり返っていた。

    わたしはこれほどまでに、会ったこともない他人を憎んだことはない。わたしたちは、何一つ、悪いことや間違ったことをしていなかったのだ。

    わたしはついには、言った。

    「あなた方がこのようなことをするのなら、わたしはこのことを、メディアにでも何でも、レポートしますから! 誰かが記事にしてくれるまで、あなた方の不条理な行いを、訴えますよ! ともかく、父が亡くなったのは事実で、夫はここに来る必要があるんです! あなたじゃ話にならないから、領事を出してください、領事を!」

    今思えば、いささか大げさな言いようであるが、しかし、何が何でも、夫に、日本へ来てほしかったのだ。来てもらわねば、ならなかったのだ。

    そうしてようやく、領事を出してもらった。しかも十分以上も待たされて、だ。

    領事は開口一番、

    「このたびは、御愁傷様でした。事情は担当者からお聞きしましたが、もう一度ご説明いただけますか?」

    と言った。わたしは、怒りの涙を流しながら、ことの次第を説明したのだった。領事は、

    「承知しました。今すぐ発行いたします」と言った。

    当たり前だ。当たり前だ。なぜ、その当たり前のことが、すぐにできない?!! 

    %^%*&()*%#@$%^! (公開禁止用語を心中で叫ぶ!)

    ちなみはその日は金曜日だった。普通だったら、午前中に申請して、午後引き取れる。もしもその日の取得を逃したら、夫はすでに購入していた土曜日の航空券で日本に帰国することさえ、できなかった。

    あのとき初めて、わたしは国際結婚、特に言えば、日本へヴィザなしでは行き来できない国籍の夫を伴侶とすることのリスクを、噛みしめた。母国同士が戦争を起こさなくても、イデオロギーの反発がなくても、こんな小さなことでさえ、心に負担をかける。

    加えて、わけのわからない人間一人の判断で、行く末が断たれるのだということも、痛いほど、よくわかった。あの日、もしも領事が不在だったらとしたら。

    夫は日本へ来ることは、できなかった。

    わたしが夫に米国市民権の取得を勧めたのは、実はこの件が背景の一つでもあった。結局現在は、取得しない方向で進んでいるけれど。

    ああ、猛烈に長くなった。こんなことを書くつもりはなかったのだが、書かずにはいられなかった。今でも、まだ怒りはおさまっていないようだ。

    ああ。消耗した。

    ちょっと休憩。

    noodle

    さてさて、夫に日本渡航のヴィザ、と考えただけで、著しく憂鬱な気分が襲ってくる。考えたくなかったが、出張後、ムンバイに戻り、夫と話したところ、やはり福岡に行きたいという。

    確かに4年も妻の母国を訪れていないし、香港から福岡は近いし、彼が来ればわたしも滞在を少し延ばしてもいいし、日本で買い物をした荷物を分担して持ち帰れば、一人でよりもたくさん持参できるし、まあ、いいかもしれない。

    じゃあ、来れば? と前向きな姿勢を見せたところ、

    「僕さ〜、温泉に行きたいんだけど、どう? また湯布院に行かない?」

    「ああ、京都もいいなあ。僕は京都、好きだからなあ〜。金閣寺で、またグリーンティー飲もうよ」

    「マウント・フジも行きたいなあ。河口湖のサイクリング、楽しかったよね〜。ソフトクリームもおいしかったし」

    ……。あの〜。どんどん福岡から遠のいているんですけど。

    今回、福岡集中って決めてるんだし、温泉欲はすでに2年前の湯布院の玉の湯事件で減退しているし、だいたい、京都だの富士山だの、日本の地理をわかってるのかっちゅうもんである。かつて行ったことがあるとはいえ、すべてわたしにお任せ状態だったから、わかってないだろうな。

    そんな次第で、今回滞在中の予定もまた、すべてわたしが決めるという条件のもと、夫も香港から合流することになった。そんな次第で、先週はムンバイ日本領事館へ赴き、資料を申請して来たのだった。明日、受け取りに行く予定だ。

    実は、今回の領事館で資料を申請するにあたっても、ちょっとしたトラブルがあり、実はそのことを書こうと思っていたのだが、4年前のことを思い出したらもう、「屁」みたいなものだということに気がついた。取るに足らぬ、ささやかなトラブルだった。なので、もう書かぬ。

    ところで下のいちご。仕事帰りに、夫が近所の屋台で買ってきたものだ。マンゴーの季節は、毎日のようにマンゴーを買って来ていた。その後は、カスタードアップルが続いた。先日はスイカ、そして夕べはイチゴだった。

    「タダイマ〜」と玄関のドアをあけ、チャリチャリとビニル袋の音をさせながら部屋に入ってくる夫は、なかなかに愛おしいものである。のろけているのである。

    インドで、こんなに整然と並べられたイチゴを見るのは初めてで、感動した。味はまあまあだったが、近所のインド料理レストランの超美味クルフィ(インドアイス)と一緒に食べたら、非常においしかった。

    「練乳とイチゴ」的コンビネーションである。

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    ●いつのまにか、色柄の海。

    わたしもすっかり、インド人マダム化してしまったものだと思う。そもそも、潜在的には「派手好き」だったと思う。しかし、米国時代のファッションと言えば、J. CrewのTシャツにジーンズ姿が定番だった。

    ジュエリーはといえば、ピアスホールもなく、ネックレスなどは肩が凝るからとせず、指輪と、バングルだけであった。

    ところがこの3年のうちに、どれだけ、じゃらじゃらとした女になってしまったことか。周辺のインド女性の、貧富の差を問わず、派手でじゃらじゃらした容姿に影響されたことは、言うまでもない。

    派手な衣類やジュエリーに、すっかり目が慣れてしまったのだ。

    さて、久しぶりに日本へ帰国である。季節は晩秋。すでに寒かろう。しかし、革のジャケット以外、冬的な服装がほとんどない。かつてニューヨークやパリを旅したときに買ったシャツなどはあるが、どれもこれも無地だから、とても地味に見えて仕方ない。

    でも、着用するのは日本でだから、地味でもいいではないか、と思う。しかし、多少デザインが凝っていても、白だけ、赤だけ、黒だけ、だなんて、なんてつまらないんだろうと思う。

    そしてクローゼットを広げて思う。なんて、カラフルなんだろうと。

    自分の衣類の写真を撮るのはどうしたものかと思ったが、インドのサリーやサルワール・カミーズ以外の衣類の、その一般的な派手さ具合を見ていただきたく、上の写真がその「サンプル」である。

    これらは一応「外出着」だが、コットンの室内着もまた、これに勝るとも劣らぬカラフルさ、賑やかさである。

    こういう色柄に日々埋もれていると、「無地」というのがいかに退屈に感じるか、おわかりいただけよう。

    で、日本では、いったい何を着ればいいのだろう。荷物になるからできるだけ、軽い服を持って帰りたい。革ジャンの下に半袖の服、というのはだめだろうか。パシュミナのストールでも巻いていれば、暖かいと思うのだが。なんだか、よくわからない。

    23amul_4●久しぶりに、Amul広告レポート

    お待たせしました。

    記録を残さぬ間に、すでに3種類を超える広告を目にしていた。

    少々古くなったが、せっかく激写したので、載せておこうと思う。

    まずは右の写真。先月中旬のものだ。

    イギリスで最も権威ある文学賞「ブッカー賞」にインド人作家アラヴィンド・アディガ (Aravind Adiga) 氏のデビュー作「ホワイト・タイガー (White Tiger)」が選出されたのを受けて、この広告である。

    問題は、毎度「ヒンディー語」による「ダジャレ」が決め手となっていることだ。

    51d0rtfwbhl_ss500__2ヒンディ語に明るくないわたしには、即意味がわからんところが、辛い。

    ちなみに、左がWhite Tigerの表紙である。

    広告はこの表紙をモチーフにしている。

    傍らに立っているのはアディガ氏だ。

    White TigerをYellow Trykarとしているが、Trykarの意味がわからん。

    夫に聞いてみるも、知らないとのこと。というか、真剣に取り合ってもらえない。

    悔しい。

    黄色いバターとか、マーガリンとか、そんな意味に通ずると予測されるがどうだろう。

    ちなみに下のBhookerとは、お腹が空いたとかいう意味らしい。

    Bookerとかけて、これはなかなかうまいんじゃないかと思う。

    さてお次は先月下旬。

    00amul空港へ向かう途中、いつもの場所から取り損ねたので、執念で別のロケーションの広告を激写した。

    10月22日、インド初の月面無人探査機「チャンドラヤーン1号」が打ち上げられたそのニュースを反映した広告だ。

    打ち上げが22日。

    広告を見たのは24日。

    相変わらず、すばやすぎる対応である。

    Chaar chaand lag gaya!

    意味は、わからぬ。

    夫も相手にしてくれぬ。

    きっと探査機の名前にかけているんだろう。

    そして最新の広告。買い物の途中に目にしたが、あっという間に通り過ぎてしまい、うまく撮影できなかった。無念であったゆえ、Amulのサイトにアクセスしたところ、なんと画像がアップされているではないか!

    あんなに構えて撮影しなくても、ここで動向をチェックできるのだった。

    うれしいけど、つまらんな。

    ともあれ、今回の広告もかなり「いかして」いるので紹介したい。

    Amulobama

    言わずとも知れた、オバマ氏である。今回は英語によるダジャレゆえ、わたしにもわかる。

    朝食(BREAK FAST)のBREAKを、オバマ氏のファーストネームであるところのBARACKと差し替えて、

    BARACK FAST IN THE WHITE HOUSE!

    演説中のオバマ氏に、自分が一口食べた(と思われる)バタートーストを差し出すなっちゅうに、アムール・ガール。

    それよりも衝撃的なのは、右下である。

    先日のiPhoneがらみで、社名ロゴがアップル社と同様に印刷(←文字をクリック)されていたのには驚いたが、今回は、OBAMAとAMULの名を合体させて、OBAMULである。

    オバムル。

    節操がないというか奔放というか、なんというか。

    やっぱり、この広告から目が離せない日々である。

    オバマ関連でもう一つ。

    お願い、誰か止めて! 小浜市の暴走(←文字をクリック)を! 名誉市民計画を! フラダンスを!

  • 17kolkata00_4

    ほとんどの仕事を終えて今日、時間の許す限り、コルカタの市街を巡った。まずは滞在しているオベロイホテルのすぐ裏手にあるニューマーケットへ。

    ニューマーケットとは名ばかりで、古くからある混沌の市場。コルカタ初日の夜、モナが教えてくれたプラムケーキを買える店へ行こうと思う。

    17kolkata01ホテルから5分ほどもかからないのだが、次から次へと「客引き」のおじさん、お兄さんらが声をかけてきて、鬱陶しい。

    たとえインドに暮らしていても、風貌はどこから見ても非インド人。

    観光客と思われて仕方ないのだが、「パシュミナ」だの「カーペット」だのの勧誘を振り切りながら歩くのは面倒この上ない。

    ところで左の写真。車の上にぬいぐるみを並べ、ここで商売をするらしきお兄さんの図。ぬいぐるみも瞬く間に色落ちしそうな炎天下。果たして買い求める人があるのだろうか。

    さて、薄暗いアーケードの中に広がるニューマーケットで、ともかくはプラムケーキと、そして見つかればダージリンティ、そしてコルカタ名物のマスタードでも買おうと思う。

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    創業百年を超えるその店。ポルトガルのリスボンや、南端の港町ファロで見かけた、古い古いベーカリーを彷彿とさせるたたずまいだ。

    たちまち旅情はかき立てられ、素朴で野暮ったい焼き菓子さえもが、おいしそうに見えてくる。モナに勧められたプラムケーキは、どっしりと質感がある。

    もっとも、商品名はフルーツケーキと書かれて、パウンドケーキ風のプラムケーキはほかにもあったのだが、日持ちのするリッチなケーキだと教わっていたので、このフルーツケーキだろう。

    聞けば3週間ほど持つという。英国の伝統的なクリスマスケーキであるところの「クリスマスプディング」(←文字をクリック)みたいなもののようだ。

    このほか、焼きたてのガーリックブレッドなども売っている。ガーリックブレッドは夫の好物なので、改めて明日の朝、ホテルをチェックアウトする前に立ち寄って、新鮮なケーキとパンを購入することにした。

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    世界最大、最古のティーオークションが開かれるコルカタにあって、しかし良質の紅茶は先進諸国に流れていくものが大半。デリーには、なじみの茶専門店が2軒あるが、この街で高級茶葉を扱う店の情報を得てはいなかった。

    市場には、いくつかの茶葉を売る店があり、日本人にもおなじみのマカイバリ(オーガニックティーを生産する茶園)の箱入りのダージリンがあったが、量り売りで売られている茶葉は、そこそこ、といったところか。

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    それでも、一応、香りの良さそうなセカンドフラッシュのダージリンを買った。ミルクたっぷりで煮だし、砂糖をたっぷりいれるチャイに好適なアッサムのCTCなどは、100グラム数十円という激安価格であった。

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    淡水魚を使った料理が多いコルカタの食材を見るべく、魚売り場にも踏み込みたいところだったが、それは次回の訪問時にとっておこうと思う。

    17kolkata12_3ホテルへの帰路、さきほどの車を見れば、ぬいぐるみで埋め尽くされていた。

    車にこのような用途があったとは。

    たいそうインド的な商売の風景である。

    さて午後は、この地方独特の布や工芸品を求めたく、各方面から得た情報をもとに、いくつかのスポットを訪ねた。

    インドに暮らし始めて3年。サリー用の布地を幾度となく見て来たが、毎度毎度、新たな発見があって、尽きない。未だ、布を見るときに目が泳いでしまう。

    焦点をしっかりと合わせて、自分の好みの色柄を選び出すのは、決して簡単なことではないのだ。

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    別のお客さんが広げてもらっているのを横目で眺めつつ、素材や織、染め、刺繍などの意匠にも気を払いつつ、「あれを見せて」「それを見せて」と指差して、引っ張りだしてもらう。

    広げたときに、思いがけないほど精緻な刺繍が現れたときなどは、感嘆のため息が出る。そのひとときは、なかなかに愉しいものなのだ。

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    コルカタの、街角の風景に色を添えているのがチャイスタンド。こってりと濃厚で過激に甘いチャイを、素焼きのカップに入れてくれる。

    カップが熱くて持ちにくい上、素焼きの口当たりはざらざらで、決して飲み心地のよいものではないが、しかしおいしく感じる。立ち飲みをしたあとのカップは、捨てる。土から作られ、土に還る。リサイクルなカップなのである。

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    さて、また別のテキスタイルショップへと赴く。この店もまた、西ベンガル地方の工芸品を中心に扱っている。木綿製品もまた、さまざまな織があり、粗い手触りのロウシルクなどもまた、独特の風合いだ。

    ちなみに下の大きな写真は、綿で織られている。とても綿とは思えない高級な質感だ。

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    サリーだけでなく、サルワールカミーズ用の布に加え、ストールや切り売りの布もある。店内を一巡、二巡するたびに、異なる布に目がとまり、いったいこの店でどれほど時間を過ごしただろう。

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    左上の写真は、ふんわりと厚みがあり、まるでウールのようであるがシルクである。右上の写真は、まるでラルフローレンのシャツにでもなりそうな木綿のサリーだ。

    他の店ではまた、コルカタが位置する西ベンガル地方の伝統工芸であるカンタ刺繍のサリーやストールなども目にした。下の写真がそれだ。わたしは鳥をモチーフにしたカラフルなストールを買い求めた。

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    布を買い求めたあとは、ホテルの近くにあるベンガリスイーツショップへ立ち寄る。ここで夫の好物であるミシュティ(甘い菓子)をお土産に買おうと思うのだ。

    コルカタはミシュティの都。街のあちこちに店が見られる。ミルクと砂糖がたっぷりの甘くて濃厚な菓子。それに加えてチャイも愛飲され、この都市の砂糖の消費量は、世界でも群を抜いて高いのではないだろうか。

    糖尿病患者が多いことから、ノンシュガーのミシュティも売られ始めているらしいが、もちろん味は落ちる。やはりこの濃厚な旨味は、純粋な砂糖だからこそ出せるのだろう。

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    どれがどのような味なのか、察しがつかないものもあり、適当に何種類かを選ぶ。すべて似通った味だといえばそうなのだが、カルダモンやサフランなどのスパイスやナッツ入りもあり、それぞれ、似て非なるものなのだ。

    形が崩れないように、手荷物で持って帰らなければ。

    さて、以下は本日入手した品々。上段の二枚は、どちらも木綿のサリー。木綿だけあり、かなりリーズナブルであるが、特に左のサリーは伝統的な織がむしろモダンで、着てみるとかなりおしゃれな印象になった。

    右側はひまわり柄。室内で撮影したので暗いが、実際は爽やかな黄色である。わたしは黄色が好きなのだが、黄色のサリーは1枚しか持っておらず、これはカジュアルにも着られるので選んでみた。夏の午後のお茶会などにもよさそうだ。

    やはりホテル近くで、モナやスジャータから教えてもらっていた刺繍専門店で、カクテルパーティ用のナプキンなどを購入する。品質はピンからキリだが、なかなかにかわいらしいものを見つけることができた。実り多き一日だった。

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  • 11lunch00

    ●久しぶりに、美味! シーフードのミールス

    昨日のティーパーティ、いやワインパーティ時に、何かの話から、南インドの米粉で作られたパン「イディリ」や「アッパム」の話が出た。そうしたら、久しぶりに、「アッパム」が食べたくなった。

    おいしいアッパムが食べられる店と言えば、まっ先に思い出されたのが南西インド沿岸部のシーフードが味わえるレストランKaravalli。この店のシーフード・ミールス(定食)がうまいのだ。俄然食べたくなってきた。

    他の人も、「食べてみたい」「食べたいわ」と盛り上がり、じゃあ、明日食べに行きましょうと話がまとまる。計6名と、本日OWCのCoffee Morningのあと、Taj GatewayにあるKaravaliへ赴いたのだった。

    アッパムは上の写真に写っていないが、米粉で作られたパンケーキのようなもので、周囲はパリッと香ばしく、中央のあたりがフワフワとしている。別の店だが、この日の記録の下部右の写真(←文字をクリック)がそれである。

    Karavaliのミールスにはシーフード、ノンヴェジタリアン、ヴェジタリアンの3種類があり、白ワインがついてくる。シーフードが最もよいお値段で、世間のミールスに比してかなり高いが、ともかくおいしい。ときどき急に食べたくなる味なのである。

    初めて味わう人たちも、とても気に入った様子であった。なによりである。

    ●聖母マリアと、その少年たち

    インドの街角に見られるさまざまなポスター。それぞれの土地柄によって、その傾向は異なる。バンガロールの場合、政治家のポスターにせよ、宗教団体のポスターにせよ、下の写真のようなテイストのものが多い。

    政治家の場合、全身写真が一般的で、なぜか右足、まれに左足を一歩踏み出して「歩いている雰囲気」で撮影されているものが多い。直立不動というものはない。

    その際、くたびれたチャッパル(サンダル)をはいている人も見受けられ、ポスターに掲載される写真を撮るときくらい、きれいな靴を履けばいいのに、とも思う。よくわからない。

    敢えて言うまでもないが、インドの日々には、よくわからないことで満ちあふれている。

    そしてまた、今日もまたよくわからないポスターを見つけた。聖母教会と墓地がある場所のそばを通過したとき、車窓から激写した一枚が下である。

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    中央に、聖母子像の写真。その周辺に、怪しげなおじさまたちの顔写真。いったい、彼らは何なのだろう。キリスト教会関係者か。写真をよくよく見てみると、下部にMary’s Boys Associationとある。聖母マリアとボーイズの協会。

    っていうと、彼らが聖母マリアのボーイズということなのか。

    ……。

    11mary04ボーイその1:南インドはタミル映画の脇役に出てきそうなおじさん。

    11mary03ボーイその2:額に見えるその護符は、ひょっとしてヒンドゥー教のものではないのか? そんなに堂々と、クリスチャンなポスターに露出していいものなのか? よくわからない。

    ボーイその3の笑顔は屈託がなくてかわいいけれど、ボーイその4は、ひどく顔色が悪いが大丈夫か。

    11mary02ボーイその6:

    ……。

    聖母子の傍らで、サングラスはないんじゃないの〜? まるでタミル映画の主役気取りである。

    インドの街角には不思議があふれている。へんてこに満ちている。毎日毎日、そういう光景を眺めながら、すでに「目が慣れて」しまっているけれど、慣れてしまっちゃまずい気もする。

    時には初心に帰って、こうして目に留まるへんてこを記録しておこうと思う。

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    11mihoところで右は、本日の「自称サリー親善大使」である。

    このサリーは、先日義父ロメイシュと義継母ウマがムンバイに遊びに来たおり、誕生日プレゼントにと贈ってくれていたバラナシ・シルクのサリーである。

    薄紫色のシルクに銀糸での刺繍が施されている。光沢があり、とても美しい。

    夏向きのオーガンジーのような「透け透け感」のある素材だが、かなりしっかりとしており、若干「網戸」的である。ひどい表現である。

    絞りサリーや、シフォン系のサリーに比べるとやや着心地が悪いが、それでも素材が美しいのでとても気に入っている。

    Karavalliで隣のテーブルに座っていたグループの女性たちがわたしの方をかなりジロジロと見ていたので、サリーを着ている東洋人が珍しいのだろうな、と思っていた。

    インドの人たちでも、特にローカルの素朴系な人々は、人のことを容赦なく見つめる。見つめる彼らには、基本的に悪意はない。好奇心をそのままに、見つめているだけのことである。

    わかっちゃいるが、ときどきムッとする。攻撃的な気分のときは、「なんガンつけようと〜」という気分になり、見つめ返す。どちらが先に目をそらすか戦ったりする。が、たいてい負けてしまう。

    しかし今日の場合は、見つめるばかりでなく、ついには巨漢のおばさま(やはりサリー姿)が、よっこらしょという感じで、わざわざ席を立ちわたしの傍らまでやって来て、

    「あなたのサリーは、本当に美しいです」

    と、ほめてくれた。隣席のグループ一同、わたしを見て、笑顔で頷いてくれたのだった。

    インド国内でサリー親善大使をやってどうする、という気がしないでもないが、ほめられてとてもうれしかった。

    今後、誰かに見つめられても戦いを挑んだりせず、見つめられるがまま、見つめてもらおうと思った。

    clip2001年9月11日のことをいつまでも心に刻んでおく。

  • 04indira01

    あ〜! 開・放・感!!

    などと書いても夫が読めないというのは、幸せと言えば幸せである。基本的には独立独行のわたしにとって、ひとりの時間は不可欠であり、なるべくしてなった二都市生活、という気がしないでもない。

    出会って当初は、彼がわたしの言語を彼が理解できないことに、物足りなさがあった。日本語を通して表現する我が言葉に含まれる微妙なニュアンスを、察してもらえないことは、寂しいことでもあった。

    でも今は、お互いわかりあえない部分があるくらいで、よかったのかもしれないとも思う。

    彼がもしわたしのこのサイトを読めていたとしたら、多分、干渉を受けて、続いていなかったに違いない。彼の間抜けな一面を書けば、当然ながら文句を言われるだろうし、かといって褒めれば、それはそれで自慢をするなとも言われるだろう。

    「ぼくの妻はライターなんですよ。え、何を書いているのか? それがね、よくわからないんですよ! 僕、日本語、読めないんでね〜! ワッハッハッハ!」

    と、笑っているうちが華である。

    一方の懸念は、わたしの変な英語により、彼が悪影響を与えられることである。たまに、日本語が話せる外国人と話していると、自分の話す日本語が、妙にぎこちなくなることがある。

    あのような状況を延々と続けるのは、どんなものだろう。

    などと心配する前に、自分の英語力向上に努めるべきなのだろう。

    pencil

    メイドのプレシラや、庭師の山下清一家(※注:庭師が山下清に似ていることから)への給与を支払い、アイロン屋へアイロン代を支払い、会計整理をしたり、仕事の見積もりを立てたり、今朝は数字関係で過ぎて行く。

    11時になり、しかし作業を中断してサリーに着替える。今日はバンガロール在住の日本人女性による「さくら会」のランチパーティーが開かれるのだ。

    会場は、インディラナガールの目抜き通りである100フィートロードに最近オープンしたオリエンタル料理の店。100フィートロードは、わたしたちが渡印した当初の3年前から延々と、あちらこちらで工事が行われており、次々に新しいブティックやレストランが開店している。

    上の大きな写真は、その風景の一こまである。かなり原始的な方法で古いビルディングを解体しているようである。澄み渡る夏空の青のもと、槌音響き、砂塵は舞い上がる。

    さてさくら会。本日の参加者は50名ほどだったらしく、新しい会員の方々も十数名いらした。日本人駐在員の数もまた、確実に増えているようである。

    04mihoさて、右の写真は本日の「自称サリー新善大使」。

    日本の集いにちなんで、先日入手したところの絞りサリーである。

    絞りを生かすため、身体にまきつけない部分の半分はアイロンをかけずにそのまま絞られているので、全体にちょっと「小さい感じ」であはある。

    しかし、その伸縮性ゆえ、ずるずると肩から落ちることなく身体にフィットし、非常に着心地がよい。しかもたいへん軽いので動きやすい。

    ちなみに身体に巻き付ける部分は、本来、フロアに届くくらいに長くすべきなのだが、今日は外を歩くので若干短めにしている。

    pencil

    ひとりだと、夕飯が呆れるほど手抜きで呆れる。

    朝は、たとえ一人でも、毎朝恒例のニンジンやリンゴ、レモン、トマトなどを使っての新鮮ジュースを飲み、ザクロやパパイヤ、バナナなどのフルーツを摂取するなどして栄養補給をしているので、健康的ではある。

    昼は外食。

    問題は夜。本を読んだり、DVDを見たり、書き物をしたり、気ままに過ごしているひとときは、料理をしたくない。

    昨日はうどんだった。

    そして今日は、ごはんとみそ汁で完了! 

    それだけかい?! という話である。でも、ごはんには、梅干しとか鰹節とか、いりごまとかをふりかけて、さっと醤油をかけて、それを海苔で巻いて食べるという、そこそこおいしい料理(と呼べるのか?)ではある。

    たまには、いいのである。

    いちいちここにレポートするほどのことでもないことだが、何となく。

    明日はまた、朝7時よりFM熊本の収録につき、5時半起床。本日は早めに就寝しようと思う。

  • 31bd01

    8月31日の本日は、我が誕生日であった。夕べDVDを見ながら、しかし12時が過ぎた瞬間に、HAPPY BIRTHDAY! と自ら叫び、アルヴィンドも「オテンジョウビ、オメデトウゴザイマス!」と、微妙な日本語で祝してくれた。

    インド産SULAのスパークリングワインを開けて乾杯。飲みながら、映画の続きを観たのだった。

    今日もまた、日曜なのをいいことに、昼間から残りのスパークリングワインを開けつつ、すっかり「ピアフ」づいているわたしたちは、ピアフの音楽を何度も繰り返し聞きながら、各々の仕事や書き物をして、のんびりと過ごす。

    アルヴィンドがお誕生日のプレゼントを買いに行こうと誘ってくれるのだが、目的の店はバンガロールにあるため、プレゼントは先延ばしにしてもらい、夕食の予約を彼に任せた。

    さて、夜。サリーに着替える。近々ムンバイ宅では車を購入する予定なのだが、今はまだタクシーを使っている。今夜もまた、いつもの無線タクシーを予約していた。車に乗り込み、アルヴィンドが目的地を告げる。

    「タージ・マハル」

    ムンバイでは、THE TAJ MAHAL PALACE HOTELは、通称「タージ」もしくは「タージ・マハル」で通用する。ところが運転手、

    「住所を言ってください」

    という。

    「インド門の向かいにある、タージ・マハル・ホテルだよ」

    ヒンディー語でアルヴィンドとドライヴァー、言い合っている。聞けばドライヴァー、最近運転を始めたばかりで、なんとインド門もタージ・マハル・ホテルも知らないというのだ。

    それは、マンハッタンで「自由の女神」の場所を知らないのと同じことである。東京で「東京タワー」を知らないのと同じことである。ワシントンDCで「ホワイトハウス」を知らないのと同じことである。大阪で「通天閣」を知らないのと同じである。例を挙げればきりがないのである。

    史上最強のドライヴァーに遭遇してしまったようだ。よくもまあ、それでステアリングを握って運転できることとと、むしろその度胸に感心する。

    ドライヴァーは車を停め、黒と黄色のおなじみ旧型フィアットのドライヴァーに道を尋ねている。何度も何度も、同じことを繰り返し教わっているのに、全然わかっていないドライヴァー。脱力。

    仕方なく、わたしがナヴィゲーターをつとめることにした。

    「まっすぐ!」「左!」「そのサークルをぐるりと右!」「左!」「右!」

    31bd02お誕生日の夜だというのに、またしても、荒れた感じの我。

    なんとか到着し、深呼吸して気を取り直し、ホテルの中へ入る。

    晩餐の場は、WASABIであった。

    4年前、夫の出張に同行してムンバイを訪れたとき、WASABIと言う名の日本料理店がオープンしたとの話を聞いたときには、そのネーミングのセンスから、日本人は関わっていないのだろうなと思っていた。

    ところがその後、「料理の鉄人」の森本氏がプロデュースしている店で、正式名称が “WASABI BY MORIMOTO” と知り、ちょいと驚いた。

    今では慣れてしまい、変だと思わなくなってしまった。

    日本では、他の「鉄人シェフ」に比べ、森本氏はあまり知られていないとの話を聞いたが、米国では”IRON CHEF”(料理の鉄人)の再放送が久しく放送されていた時期があり、森本氏はニューヨークの有名レストランのシェフとも対決をしたりして、かなり有名な人物である。

    “IRON CHEF”は、米国時代の、夫の好きなテレビ番組の一つであった。

    2005年2月、ワシントンDCに住んでいたころ、フィラデルフィアで行われていたサルバドール・ダリ展を見に行った。その折、森本氏のレストランであるMORIMOTOを訪れた。

    Pmorimoto2ちょうどわたしたちの隣席の女性たちが、森本氏の知り合いだったらしく、彼はその女性たちに、「鉄人みずから」あれこれと料理をサーヴして、場を盛り上げていた。

    とても感じのいい方だなとの印象を受けた。

    食事を終えたわたしたちは、森本氏に声をかけ、挨拶をした。アルヴィンドは、

    「僕はムンバイの、タージのあなたの店にも行きましたよ!」


    と、そのとき食べたエビ料理のおいしさを、熱く語っていたものだ。右の写真は、そのときのものである。アルヴィンド、もんのすごく、うれしそうである。

    bottle

    さて、3年前、インドに移住する直前にムンバイを訪れた時、ちょうどわたしの誕生日をこのホテルで迎え、WASABIでバースデー・ディナー(←文字をクリック)を楽しんだのだった。

    その日は奇しくも、WASABIの開店一周年記念日。わたしと同じ誕生日であった。大きなバースデーケーキをコンプリメントで出していただき、とても幸せなひとときを味わったものだ。

    そして本日。テーブルについて、メニューを開く。

    先日、視察旅行のコーディネーションの折に訪れていたので、すでに知ってはいたのだが、3年前に比べると、愕然とするほどお値段が上がっていることに、改めて驚く。

    松竹梅300mlが……。ご飯一膳が……。いろいろ書きたいが、せっかくの誕生日だ。ムードを壊すようなレポートは控えよう。

    さて、「家庭で料理できないもの」。つまり刺身類を中心に、注文することにした。

    久しぶりの刺身をわくわくとしながら待っていると、あら、カウンターに森本さんが! アルヴィンド、さっそくカウンターへ向かい、声をかける。わたしも続いて、席を立つ。

    「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、3年前にフィラデルフィアのお店でお会いしたんですよ」

    聞けば森本氏、昨日ムンバイに到着し、明日は、デリーにオープンしたばかりの店を訪れるとのこと。米国にも新しい店を数店オープンするなど、とてもおいそがしそうである。

    今日はわたしの誕生日だと説明したら、その後、「鉄人みずから」メニューにはない前菜をテーブルにサーヴしてくれた。それは、マグロのタルタルの上に、トマトやオリーヴ、クリームチーズやキャビアなどが上品に盛りつけられたもので、スライスされたサトウキビをスプーンにして、食べるのだと言う。

    「こうやって、サトウキビの上に載せて、ガシガシとサトウキビを噛みながら、食べてください。サトウキビ、噛み切っちゃだめですよ」

    といいながら、デモンストレーションしてくれる。

    31miho_2日本から直送される刺身は新鮮で美味。アルヴィンドの注文した料理もおいしく、かなりのヴォリュームがあり、すっかり満足だ。

    食後は再び、鉄人みずからバースデーケーキを運んで来てくれた。

    こんなに手厚くもてなしていただけるとは思ってもおらず、感激である。

    「3年前の白いケーキもおいしかったけど、これもおいしいね!」

    食べ物のことは、特にしっかりと覚えているマイハニーだ。

    アルヴィンドと二人きりでも、それはうれしかったに違いないが、今日は思いがけず、わずか2日しかムンバイに滞在しない森本氏にもてなしてもらえて、喜びもひとしおである。

    31bd05帰りしな、アルヴィンドも森本氏と記念撮影。

    3年前と同様、満面の笑顔である。

    本当に、いい夜だった。

    birthday

    こうしてまた、一つ歳を重ねたけれど、33歳だろうが43歳だろうが53歳だろうが、この際、どうでもよい。

    いつまでも元気で活動できれば、今が何歳であろうが、あまり重要なことではない。

    健全な精神と肉体を維持するための努力をしつつ、寄る年波をかきわけつつ、元気にやっていけるよう、がんばろうと思う。

  • 16ceremony0_3
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    本日、義姉スジャータと義兄ラグヴァンの招きで、IIS(インド科学大学)キャンパス内の彼らの家へ赴く。ユカコさんとビル、ジェイクくんも招かれていて、わたしたちがついたときには、すでに到着していた。

    まずは本日、アルヴィンドとスジャータがラクシャー・バンダン(ラーキー)の儀式を行う。姉、もしくは妹が、兄、もしくは弟の腕にラーキー(Rakhi)と呼ばれる紐を巻き、男兄弟の健康や厄除を祈るのである。

    去年、そして2年前も行ったので、ご記憶の方もあるだろう。去年は日本の母も来ていたのだった。なんだか遠い昔のことのようだ。

    儀礼ののち、IISへ来るのが初めてのユカコさんたちのために、ラグヴァンがキャンパスを案内してくれる。

    「昔のバンガロールは、街全体がこうだった」と聞かされるたびに、過去のこの街に思いを巡らせずにはいられないこのキャンパスの、その緑の豊かさ。

    雨あがりの、緑のしっとりとした匂いと、ひんやりと清らな空気が、まるで国立公園のようである。テントを張ってキャンプでもしたくなるような様子である。

    タタ・インスティテュートとも呼ばれるこのインド科学大学。正式にはPh.D (博士号)取得と研究機関であり、大学というよりは大学院である。ラグヴァンはここで教鞭をとると同時にエイズ・ワクチンの研究をしている。

    わたしはすでに何度か訪れたことがあるのだが、ユカコさんたちとともに、ラグヴァンの案内に従って研究室についていく。

    インド最高峰の研究機関であるが、率直に言って、設備はミニマム。予算がなさそうな気配でいっぱいである。が、米国ではなくインドを拠点に選び、ここで十年以上過ごしているラグヴァンは、この研究室にとても愛着を持っていることがよくわかる。

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    2000年、アルヴィンドがMIT(マサチューセッツ工科大学)の同窓会に赴いたおり、当時はまだガールフレンドだったわたしも数日かけて行われるイヴェントに参加するべく同行した。

    ちょうどそのとき、ラグヴァンは研究のために1カ月ほどMITの研究室に在籍していて、わたしたちを研究室内に案内してくれた。その設備のよさといったら、当たり前といったら当たり前だが、IISの比ではなかった。

    研究を遂行するためには研究資金が必要で、そのために製薬会社など、自分たちでスポンサーを探さなければならないこともあるらしい。詳細はさておき、ラグヴァンの仕事もなかなかに大変のようである。

    ちなみに右上の集合写真。休日だというのに作業をしていた男女学生がいたので、ラグヴァンが「写真を撮って」と撮影を頼んだのだが、どうやら彼らは自分たちも一緒に写真を撮りましょうと勘違いをしたようで、にこにこと一緒に並んでくれたことから、やむなく坂田が撮影した。

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    かくなる次第で、いつものように、わけがわからないものを見せてもらいつつ、わけのわからない説明を受けつつ、何がなんだかわからないまま、研究室を出る。

    屋上に出て曇天の空を仰げば、舞い飛ぶ鳥たち。かと思えば、なんと大きなコウモリ群! こんな大きなコウモリを見るのは初めてのことで、しかもその姿がまるでバットマンのロゴにそっくりで、「うわ〜っ、バットマンみたい!!」と騒ぐ。何か間違っている気がしないでもないが、ともあれ。

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    研究室から戻り、まずはラグヴァン博士特製のカクテルで乾杯する。博士の作るカクテルは、分量が厳密に守られているような、律儀さを感じる。

    しかし、「ブルーハワイ」といいながら、見た目グリーンなのはどうしたことか。何らかの化学反応か。そんなことはさておき、たいそうおいしい。何度も作ってくれるので、何度もおかわりをしてしまう。

    インドスナックをおつまみに、しばらくおしゃべりののち、ジェイク君もちょうどおやすみしてくれてディナータイム。今日はスジャータが、北インドの家庭料理を食べる機会がないであろうユカコさんとビルに、手料理をごちそうしたいと腕によりをかけて準備してくれていた。

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    米国で購入したスロークッカー(わたしも欲しい)で、ゆっくり一晩かけて煮込んだという骨付きマトンのカレー。身がとろとろと柔らかく、抜群に風味がよい。

    それから野菜入りのダル(豆の煮込み)、カリフラワーのソテー、プーリー(揚げたパン)、自家製ヨーグルト、タマネギのスライスなどが並ぶ。スジャータの愛情が伝わって来る、やさしくて温かい料理だった。

    16dinner16tart_2

    写真右のタルトは、本日坂田作のレモンタルトだ。なぜ大小あるかには事情がある。

    そもそも今日は、久々にアップルタルトを作る予定であった。昨日、SPENCER’Sでリンゴを探したのだが、買おうと思っていたニュージーランド産のグラニー・スミスが新鮮ではない。どうしよう。

    別のよく知らないリンゴの方が新鮮そうだ。それを買うと同時に、インド北部産のリンゴも買う。ところがこの2つともが、もっさりと寝ぼけた味で、焼き菓子に向かなかった。少々傷んでいてもグラニー・スミスを買うべきだったと悔やむが時既に遅し。

    ニューヨークのソーホーで人気があるベーカリー、”Once Upon a Tart”のレシピブックを開く。素材を見たところ、レモンタルトが目に留まった。レモンは近所の八百屋でも手に入る。レモンタルトにしよう。プレシラにお使いを頼む。

    さて、生地を作って冷蔵庫に寝かせている間、タルト型を探すが、なぜか大きな型の「底」がない。周囲と底が別になっていて、焼き上がりを底からカパッと押し上げて取り出すタイプのタルト型なのであるが、その底がないとあっては、どうしたもんだ。

    最後にタルトを焼いたのはいつだか思い出せない。仕方なく、パイ皿で代用するとする。それに加え、小さなタルト皿4枚も使い、若干多めに焼くことにした。

    なにしろ、初めてレシピであるのに加え、インドのレモンは米国や日本のレモンとは異なる。写真右下のライムのようなものがそれだ。

    これがどのような味わいになるのか、未知数ではあるが、取りあえずはレシピに従って作ってみる。

    16once16lemon

    小さなタルト型はあっという間に焼けたが、しかし大きな型は、なかなか焼けない。加えて、オーヴンの温度設定が難しい。なにしろインド製のオーブンである。この新しいオーブンで菓子を焼くのはまだ3度目で、加減が掴めていない。

    200度に設定したとしても、それが本当に200度である可能性は限りなくゼロに近い。高めか低めかの見当もつかぬ。オーヴン対応の温度計を、今度米国を訪れたときに購入せねばと思う。

    それはさておき、どうにも焼け具合からして、大きいものよりも、小さいもののほうが、おいしそうな気がする。大きい方はレモンカード(具)が多すぎた気がするのだ。

    そんなわけで2種類を持参し、みなに味見をしてもらった次第。やはり、小さい方が、タルト生地が香ばしく焼けていて好評であった。

    今後の改善点としてまず挙げられるのはレモンの分量。インドのレモンの方が、米国のレモンよりもかなり濃い。味がシャープだ。従っては、次回はスイートライムを加えて少しマイルドにするとか、生クリームを若干多めにするなどの工夫をすべきだと思われた。

    次に、焼く際には、やはりパイ型を使ってはいけない。大型タルトの底が見つかればそれを使って少し浅めに具を流し入れる。あるいは小型タルト型で作るべし。

    ちなみに生地は、今回、精製小麦粉のMAIDAを使用したが、無精製のATTAでも素朴な風味のおいしいタルト生地ができる。

    バターは今回、ニルギリス製をの無縁バターを使った。しかし、ブリタニアでもマザーデイリーでもアムルでも、おいしくできる。砂糖はオーガニックのやはり無精製の砂糖。これをふるいにかけて使った。

    インドは菓子の素材が非常に安価で手に入る。特にバターは、日本で不足していることが信じ難いほど、どさどさと大量に、しかも安価で店頭に並んでいる。

    わたしたちが太らない体質だったら、もっと頻繁に菓子を焼くところであるが、そうではないので、控えめにである。

    16sariところで、右は本日の我が姿。

    帰宅して後、満腹&酔っぱらい状態であるが、撮ってもらった。

    今後、サリーを頻繁に着用しようと心に決め、ちゃんと写真も撮っておこうと思ったのだ。

    本日着用は、ラジャスタン地方産。木のスタンプでペタペタと柄を押されたものである。

    2年前、アートスクールのエキシビションで購入した。

    最早、「日印サリー親善大使(非公認)」になって、日本のみなさんにサリーの美しさの一端を見ていただこうとの思いである。

    サリーを買うための、たいそうな口実、ともいえる。

  • 13sari00

    金曜から来週にかけてはバンガロールである。スジャータとウマからプレゼントでもらったサリーのブラウスは、洋装ファッションを手がけてくれるバンガロール在住のデザイナー女性に任せるつもりだ。

    彼女が仕立てるブラウスは、街のテイラーよりは割高だが、「洋服向け」の立体裁断で、着心地がよくシルエットも美しく、縫製が丁寧なのだ。本来彼女は、自分のスキルを生かせる洋装を中心に注文を受けているのだが、わたしは専ら、サリーのブラウスばかりを依頼している。

    せっかくならば、まとめて発注したい。例の「絞り染めサリーの店」へ足を運ぶなら今週しかない。と、慌てることもないのだが、本日、赴くことにした。

    13choco●ムンバイにレオニダス!

    ケンプスコーナーでタクシーを降り、サリー店まで歩こうとしたところ、目の前にレオニダスを発見!

    ベルギーチョコレートのレオニダスが、ムンバイに?

    空輸して、溶けないままに、ディスプレイできるの?

    溶けたり固まったりを繰り返してたりなんかしてないの?

    そんな失礼な疑念はさておいて、ともかくは、店へ入る。と、気前のよい店員が、一粒まるごと味見をさせてくれる。おおう。久しぶりに、おいしい!

    この店、この5月にオープンしたばかりで、10日に一度、ベルギーから新鮮なチョコレートを空輸しているのだとか。値段は諸外国と変わらず。パッケージ入りもあるが、基本は重量単位での販売。ここでは100gが450ルピーからとのこと。一粒平均150円程度か。

    ふと、ワシントンDC時代が蘇る。ご近所のジョージタウンに、やはりレオニダスがあって、週末アルヴィンドと散歩しているときなど、ふらりと立ち寄り、4粒とか6粒とかほんの少しずつ買っては、小さな紙袋に入れてもらい、少しずつ分け合って食べたものである。

    遠い昔、レオニダスはじめ、ニューヨークのチョコレートショップのことを書いた記事がホームページにあるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ。

    ■Leonidas: #1 Cornelian Bldg, 104 August Kranti Marg, Kemps Corner, Mumbai

    ●そして絞り染めの、色彩の、海へ。

    わたしは、自分が買ったものを、あるいは買い物の成果を、世間に公表したいわけではない。

    このサイトの主目的は「インドのよき部分をも」アピールすることである。入手した諸々を載せていることに、我ながら節操がないのではないか、と思うところもあるのだが、しかしこの国で出合う「よきもの」の、それらは一端である。

    その一端を、なるたけ多くの人に知って欲しい。そんなわけで、ここに紹介している次第である。ということを、あらかじめ断っておきたい。

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    店へ入るなり、目移りである。それはインドのテキスタイルショップであれば、どの店においてでも、である。壁一面を覆い尽くす布の山。その、分類されているともされていないともつかぬ、色柄の海。

    少なくともこの店は「絞り染め (Tie and dye) 」というテーマで以て一貫しているから、迷いは少ない。素材が絹か綿か、という大きな分類と、刺繍や絞りの緻密さによって値段に広がりがある。

    店主のスジャータは、先日、ウマとロメイシュとともに訪れたときとは一転して、ご機嫌斜めであった。お客であるわたしを迎え入れながらも、従業員男子2名を、ヒンディー語で怒鳴り散らしている。さらには、アシスタントの女性に向かって英語で、

    「できることなら、こいつらをひっぱたいて、今すぐ蹴り出したいところだわ!」

    と息巻いている。背後で炎が巻き上がっている。何があったんだスジャータ。我が穏やかな義姉スジャータとは似ても似つかぬスジャータだ。ここにお客がいることを忘れないでくださいスジャータ。

    気を取り直してスジャータ、わたしに希望の色柄、予算を尋ねる。

    ここで自分の意見を的確に述べることの、実は難しいことと言ったらない。一番上の大きな写真を見ていただきたい。一瞥する限りでは、全体に「ド派手!」である。しかし、一つ一つに目を走らせれば、それぞれの色に味わいがあり、派手ばかりではなく、落ち着きのある色、繊細な色遣いのものも見られる。

    いつも、同じような色を選んでしまうから、違うものを見つけたい。しかし、自分の肌色に合わなければならない。視線が泳がぬように、一つ一つを確認しながら、しかしやっぱり視線は泳ぎ、焦点を定めるのに一苦労だ。

    「あれを見せて」

    と、指差して言えば、

    「あら。これは35000ルピーよ。これを最初に見ると、他のものでは妥協できなくなってしまうわよ」

    おっしゃる通りでございます。とはいえ、いいものも見ておきたい。それは、金糸がぎっしりと施されたうえに、緻密な絞りで以てデザインされた、見事な布であった。

    サリーに用いる布は約5メートル。身体に巻き付けられる部分、つまり外にはあまり見えない部分も2メートルほどはあるのだが、あまり見えないとはいえ、前面でプリーツにもなることから、5メートル全体に亘って、デザインが施される。何度も書いて来たことだが、これらは「芸術作品」である。

    他の店が、どさどさと見せてくれるのに対し、スジャータは比較的「出し惜しみ」である。あれこれを引っ張り出さず、わたしの好みを聞き出してから、見せてくれる。

    今日のところは、若干カジュアルなパーティーなどに着られる、あまり気合いが入り過ぎていないサリーが欲しい。とはいえ、その線引きが難しい。なにしろインド。派手の尺度が諸外国とは異なるのだ。

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    何枚かを、羽織ってみる。布だけで見るとピンと来なくても、羽織った途端に魅力を発揮するものがある。それは自分に似合っているという目安である。自分に似合う色柄ものは、布の潜在力が大いに発揮されるし、似合わないものは、相殺しあって魅力が出ない。

    たとえば上の2枚。これらはわたしの肌色に、よく似合った。上の「一見地味」なサリーは、一見地味なだけに、インドでは滅多に見ない色の組み合わせであるが、その渋いながらもエレガントな風合いに引かれる。たまらん。

    下の「一見派手」なサリーも、しかし羽織ればしっとりと落ち着き、やさしさのあるグラデーションが魅力的である。肌触りも心地よく、思わず頬ずりしたくなる。しないけど。

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    ご機嫌斜めなスジャータに、しかしあれこれと尋ねたところを箇条書きにすると、以下の通りである。

    ・(彼女は若く見えるが)ニューヨークで働いている息子がいるらしく、年の頃なら40代後半か。
    ・彼女は数十年に亘り、これら商品の製造から販売までを一手に行っている。
    ・主にはグジャラート州で製造している(一部ラジャスタン州)。何カ所もの村で、何百人もを雇っての作業である。
    ・まず、布の調達。素材となる白地の布は、全国各地から良質のものを取り寄せる。

    <以下は異なる職人による作業工程>
    ・白地に、金糸の刺繍を施す。
    ・染めのデザイン画を描く。
    ・デザインに従って、糸で絞る。
    ・染める。乾かす。染めるを繰り返す。
    ・乾いてしまって初めて、仕上がりの善し悪しがわかる。

    ちなみに上の2枚は、全行程8カ月から10カ月かかって作られるらしい。染めるだけでも15日はかかるのだとか。

    デザインは、主にはスジャータが各作業場に「電話で」指示するらしい。みな、熟練の「数十年選手」ばかりなので、おおよそは伝わるという。

    ともあれ、後継者の育成、商品の管理、その他諸々諸々で、日々ストレスフルらしい。

    「わたしがヒステリックになる理由、わかるでしょ。ともかく、この国で仕事をするのはたいへんなのよ!」

    と、開き直っているご様子。わたしがサリーの写真を撮っていいかと尋ねたら、一瞬顔を曇らせつつも、

    「あなたがインド人なら絶対にダメだというけれど、日本人だから、いいわ。わたしはね、インド人を信じていないの。なにをやらかすかわからない。平気で人を欺くし。写真を撮って、コピーを作るなんて常識だしね」

    確かにおっしゃる通りだが、それにしても、そんなに厭世的にならなくたって……。一応、客商売なんだし……。スパにでもいって、リラックスして来てはいかがですか? と言いたくなるが、もちろん言わない。

    「他にお店はあるんですか?」

    「いいえ、全世界にこの店だけ。でもね、顧客は世界中にいるの。主にはNRI(非インド在住インド人)ね。広告は一切出さなくて、すべて口コミなのよ。広告なんて、信用できないでしょ。確かなのは口コミ。口コミよ」

    「で、どれを買うか、決めた? そう。じゃあ、じっくり検討して。わたしはこっちで仕事を始めるけど、いいかしら」

    まったくもって、サーヴィス精神のないスジャータだが、しかし作品は人の心を捉えて離さぬ。この店の商品は、他とは違うな、という魅力が布から迸っているのである。やれやれである。

    そうして、ついには、選んだ。

    無論、布を選んでも、そのまま持ち帰られるわけではない。ブラウス部分のみをビリビリと裂いて(文字通り、手で裂いていた)、残り部分はまだ残る絞りの糸を全部取り除き、裾の部分の裏地をつける処理、それからアイロン(身体に巻き付ける部分のみしっかりと)などの作業をやってもらう。

    次回、ムンバイに来たときに、引き取ることになるだろう。

    13sari07左の写真は、スジャータに怒鳴られ、すっかり意気消沈してせっせと布を折り畳む従業員2名。

    なにやら、哀愁である。

    元気出せよ、と声をかけたいくらいであった。

    そんな荒んだムードの店ではあったが、一見の価値ありである。サリーだけでなく、サルワールカミーズ用の布もある。

  • 12taj

    ●またしても、女性のためのエキシビションが行われており。

    バンガロール宅が恋しい。なにしろ毎日、風雨である。書き上げたい原稿は進まず。家にいても煮詰まるばかりなので、夕飯のための買い物にでも出かけようと思う。

    まずはご近所のお気に入りなレストラン、Moshe’sへ赴き、パンを購入。お気に入りのエジプト風パンはいつも売り切れ。やむなくピタパンとベーグル、フォッカチオを購入。やはりパンは朝、買いに来るべし。

    パンを片手に帰路、Taj Presidentでマダムの人だかりを発見。またしても、何やらのエキシビションが行われているようである。パンの袋を携えて、しかし迷わず入る。

    本日はジュエリーやシルヴァー製品なども多く、衣類も洗練されたものが多く展示されている。上の写真は、例の「絞り」のサリーの展示だ。先日、ウマが連れて行ってくれた店は、この絞り染めの専門店である。

    インドの人々は、この絞り布にアイロンをぴっちりとかけてのばし、サリーとして着用するのだが、わたしが唯一持つ絞りサリーは、身体に巻き付ける部分のみアイロンをかけ、最後の一巻きとうしろにタラリと下げる部分には、軽くしかかけていない。その方が、絞りの質感が出てよいのだ。

    触れてみれば、その手触りの良さに改めて惚れる。しかしサリーの色合いは、今ひとつだ。やはり近々、ケンプス・コーナーのあの店へ行かなければ。

    30owcちなみにわたしが現在持つ、唯一の絞り染めサリーとは、例のTV番組「仰天ライフ」に出演した際、OWCのコーヒーモーニングで着用していたものである。

    右の写真がそれである。

    友情出演してくれたエリカさんとユカコさん、そしてまだ小さなジェイク君も一緒に写っている。

    このサリー、着やすい上に、軽くて着心地も抜群なのだ。

    色合いもまたとても気に入っている。同じものばかりを着てしまっていけない。

    ●インド風味のコロッケが美味。キャベツもいける。

    オリンピック関連ニュースで、水泳の北島選手の実家が「メンチカツ屋」だとの記事を目にした途端、メンチカツが食べたくなった。それに類似したものとして、コロッケを作ることにした。

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    我が家庭料理の大半がそうであるように、コロッケもまた、かなり独創世界である。今夜はインドスパイスを利用してみた。
    ・オリーヴオイルに粒こしょうやカルダモン、シナモンなど、パウダーではない「形あるスパイス」を加えて香りをオイルに移す。
    ・スパイス類を引き上げて、バターを加える。
    ・みじん切りのタマネギを加え、黄金色に色づくまで炒める。
    ・ニンジンのみじん切りを加えて、しんなりするまで炒める。
    ・三大スパイス(ターメリック、コリアンダー、キュミンパウダー)を加える。
    ・ひき肉(今回は冷凍保存していたチキン)を入れてほぐしながら炒める。
    ・塩など好みの調味料で味を整える。ジャガイモを加えるのでやや濃いめに。

    ・ジャガイモを茹でて潰す。若干牛乳を加えると滑らかになる。

    ところでインドの場合、茹で方がワイルド。わたしもそのワイルドな茹で方を実行している。小振りのジャガイモを、きれいに洗って皮のまま、圧力鍋で茹でるのだ。シューッと一吹きしたら火を止め、余熱で茹で、ほどほどに冷まして皮をむく。この方が皮をむくのが簡単。かつ、ポテトの旨味が湯の中に逃げない感じがしてよい。

    ・ジャガイモと炒めた具を混ぜ合わせる。
    ・味見をしたならば、すでにこの時点でうまい! 
    ・尤も、この時点でまずかったら、失敗である。
    ・味見というよりは本気で数口、食べてしまう。
    ・しばらく、寝かせる。
    ・俵型に整え、小麦粉→卵→パン粉(日本もの)をまぶして揚げる。
    ・多めに作って冷凍保存。妻不在時の夫の夕飯のために。

    本日の付け合わせは、キャベツと、なぜか高野豆腐。なぜなら賞味期限切れが迫っているのに気づいたためである。取り合わせが変だが、高野豆腐は夫の好物なのでノープロブレムである。

    ところでキャベツについて。インドのキャベツは硬いが、芯のあたりを避け、こうして千切り(雑で失礼)にして一旦、さっと茹でると食べやすい。コールスローのようにしてもいい。レモンやオリーヴオイルなどで軽く味つけるのもいい。オリーヴオイルとワインヴィネガーでもよい。

    今日のところはゴマ油に醤油、白ワイン少々、ジャガリ(無精製の砂糖)少々であえてみた。これを冷蔵庫で冷やした後、ゴマや鰹節、或いは揉み海苔などをふりかけて食べるのもおいしい。小さいものなら、二人であっという間に一玉分、平らげてしまう。

    キャベツの千切りは、南インド料理風に、たっぷりのオイルにマスタードの粒(インドでは一般的なスパイス)やココナツと共に炒めて食べても美味である。

    ところで、今夜の高野豆腐は、夕べの「スペアリブとダイコンの煮付け」で余った煮汁を活用した。煮汁を冷蔵庫で保存すると油脂がうまく分離するため、それを濾せば旨味の染み込んだ煮汁として再利用できるのだ。

    そんなわけで、今夜もまた、美味なる食卓であった。